大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

秦河勝、蜂岡寺を創建

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とても興味深い記事が掲載されていたので、以下に引用する。このシリーズはほかにも役にたつ記事があるかもしれない。

【以下は引用】

<決断の日本史(125)>603年11月1日 秦河勝、蜂岡寺を創建
2012.5.29


■聖徳太子の新羅仏いまに

 秦河勝(はだの・かわかつ)は約1400年も昔の人物だが、京都ではいまも特別な愛着をもって語られている。聖徳太子から弥勒(みろく)菩薩像を下賜(かし)され、太秦の広隆寺を創建したからである。

 推古天皇の11(603)年11月1日、聖徳太子は小墾田宮(おはりだのみや)(奈良県明日香村)で、群臣を前に「私の持っているこの尊い仏像を祀(まつ)る者はいないか?」と問いかけた。

 そのとき、河勝が進み出て仏像をもらい受け、蜂岡寺(はちおかでら)を建てたと『日本書紀』は記す。広隆寺は蜂岡寺の後身で、国宝第1号の「弥勒菩薩半跏(はんか)像」こそ、この像とされている。

 河勝はなぜ、仏像を引き受けたのだろう。従来は聖徳太子と河勝の間の、深い信頼関係だけで説明されてきた。しかし昨年末、伝記『秦河勝』(ミネルヴァ書房)を執筆した井上満郎・京都市歴史資料館長(日本古代史)は次のように言う。

 「秦氏は5世紀後半、土木や織物などの先進技術を伝えた渡来氏族です。出身地は朝鮮半島東部の新羅だったと私は考えています。問題の像が新羅仏だったので、もらい受けた。河勝は新羅仏教の日本側の受け手だったのではないでしょうか」

秦氏の一族は京都盆地にやってきて、西部を南北に流れる大堰川(おおいがわ)に堰(せき)を築いた。嵐山・渡月橋(とげつきょう)のあるあたりである。ここから引いた水で、原野だった嵯峨野一帯を耕地に変えた。

 こうした技術が、のちの桓武天皇による平安遷都にもつながった。「平安京の大内裏は河勝の邸宅跡に建てられた」との伝承も生まれたのである。

 河勝は推古18(610)年、新羅使を接遇する役目を果たした。また皇極天皇3(644)年には、駿河地方に派遣され、邪教を広めていた豪族を討ち果たしている。長命で、国家に功の多い生涯であった。(渡部裕明)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120529/art12052907400002-n2.htm
広隆寺弥勒(拡大)

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韓国の石仏です。上記とよく似ていますね!

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韓国の国宝の金堂仏です。広隆寺弥勒とよく比較されます。

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これは日本在の金銅仏です。お顔に注目してください。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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