大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

特別展 湖北の観音 

特別展 湖北の観音

【以下は引用】

 琵琶湖の北端に位置する湖北地方は、仏教文化財の宝庫です。中でも観音菩薩像が濃密に分布し、集落の数に匹敵するほど多くの観音像が今なおこの地に伝えられています。「観音の里」と称される旧伊香郡地域の仏教文化財は、奈良・平安時代にさかのぼるものが多く、その内訳は十一面観音、聖観音、千手観音、馬頭観音など、バラエティーに富んでいます。
 この地域はかつて、東にそびえる己高山(標高923m)を中心として繁栄した仏教文化圏に属していました。応永14年(1407)、天台宗の法眼春全によって記された『己高山縁起』(鶏足寺蔵)によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった。そこへ行基(688から749)が訪れて仏像を刻んで寺を建て、また泰澄(682から767)が修行場とし、のちに最澄(766から822)が訪れ“白山白翁”と名乗る老人の勧めによって再興した」とあります。
 つまり、近江国の鬼門として古代より霊山と崇められてきた己高山は、交通の要所にもあたることから、奈良時代には中央仏教と並んで北陸白山十一面観音信仰の流入があり、さらに平安期に至っては比叡山天台勢力の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化を構築したことが窺われます。
 平安時代以降、天台宗傘下として己高山を中心に栄えた湖北の寺々は、室町期頃には弱体化し、かわって浄土・曹洞・一向(浄土真)宗・時宗らのいわゆる新仏教が、自治能力を高めていった農民勢力の台頭に併せて勢力を伸ばしていき、また己高山寺院は真言宗との結び付きを深めていったようです。
 そして村々にあった天台寺院の多くは次第に衰退して無住・廃寺化し、そこに残された尊像たちは、宗派・宗旨の枠を越えて、村の守り本尊として民衆に守られていきました。中近世においては、神と仏は一体であり、氏神ならぬ「氏仏」という考えがあったことによります。また、戦国時代には、湖北は幾度も戦乱の舞台となりましたが、その度ごとに民衆は、仏たちを身を挺して守ってきたというエピソードも事欠きません。各集落に伝わる観音をはじめとする仏たちは、村全体の信仰の象徴(氏仏)として、江戸時代を経て、今の住民に引き継がれてきました。

□ 主催 長浜市長浜城歴史博物館
□ 会期 平成24年9月7日(金曜日)から10月14日(日曜日)
□ 会場 長浜市長浜城歴史博物館2・3階展示室
□ 開館時間 午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)

(主要展示仏)

湖北の仏像1
木造十一面観音立像 余呉町坂口 菅山寺蔵

 漆を用いた特殊な仏像制作技法で造像された乾漆像(かんしつ)である。中国の唐朝と日本の奈良時代に行われた。木心乾漆(もくしんかんしつ)は、木で心木を造り、その上に木粉に麦漆を混ぜた「木屎漆(こくそうるし)」を厚く盛り上げ塑形・彫像してゆく。手指などの細い部分には、針金を芯に用いる。本像は、近年の調査で滋賀県内で四例目の木心乾漆像であることが判明した。像背面墨書と台座裏墨書銘から、寛政13年(1801)に天神九百年忌を記念して、彦根藩家老・木俣守前(もりちか)と母・清玉院によって菅山寺に寄進されたものである。
【奈良末期~平安時代初期 像高 102.8センチメートル】

湖北の仏像2
木造聖観音立像 弓削町  来現寺蔵

 浅井郡弓削村(長浜市弓削町)の観音堂に安置される等身大の観音立像である。観音堂のある場所は小字「満願寺」と言い、聖徳太子の建立した寺院と伝えている。この像は、頭体幹部をヒノキの一材から造り、右腕は手首まで左腕は上膊(じょうはく)まで共木より刻出する.後補の両手・両足先を矧(は)いでいる。背面の腰上と腰下から刳(く)り、それぞれ蓋板(ふたいた)を嵌(は)める。山形の髻(もとどり)は簡素であるが、眼鼻立ちは大振りで美しく、刀技も明快で古様である。体部は、腰下を長く造り、裳裾を左右に大きく広げ、両膝上には衣文を全く刻まないため、すらりとした姿に表現される。
【平安時代(前期) 像高 178.8センチメートル】

湖北の仏像3
木造菩薩形立像(伝聖観音) 高月町唐川 日吉神社蔵

 高月町唐川の湧出山(ゆるぎやま)の中腹、日吉神社と並んで建つ観音堂に、千手観音立像(重文)と共に祀られる。『赤後寺(しゃくごじ)観音縁起』(文和2年・一三五三奥書)によると、この2像は、元亀年間(1570~73)に廃絶した赤後寺の本尊と伝える。本像は、全身を錆(さび)下地で覆い、漆箔(しっぱく)も部分的に残っている。頭体幹部のほぼ全身を、ヒノキ一材から彫成し、内刳(うちぐ)りを施さない。木心は、中央やや右後方に籠(こ)めている。大きな髻や端正な顔立ち、そして胸腹部のくびれを明快に表現し腰を軽く捻(ひね)って立つ姿、量感豊な体躯と粘性を帯びた衣文(えもん)の彫り口など、穏やかさのある像容を造り出している。制作は、9世紀末から10世紀もごく初期の造像である。
【平安時代(前期) 像高 182.8センチメートル】

湖北の仏像4
木造十一面観音立像 高月町西野 充満寺蔵

 西野薬師堂に伝薬師如来立像と共に安置され、右手を垂下し左手に華甁(けびょう)を執り、右足をやや浮かせて立つ十一面観音像である。ヒノキの一材から彫出し、内刳りは施さない。両手首や両足先を矧ぐ。本像は、薬師如来像と共に近世にはかなり損傷が激しかったようで、像底はヒノキ材で根継ぎ状に矧ぎ足し、肉身部は江戸時代の分厚い漆箔に覆われ、腰下も表面の荒れが補修されなど像容を損ねている。しかし下膨れの丸い顔、胸腹部を量感豊に表す手法、裳(も)の形式的に整理された衣褶、両脚部の渦文(かもん)など重量感に溢れる作風から十世紀の製作であることが判る。
【平安時代(後期)像高 166.7センチメートル】

湖北の仏像5
木造十一面観音立像 西浅井町山門 善隆寺蔵

 本像は、右手を垂下し左手で華甁を執る通形の十一面観音立像である。小づくりの頭部には、秀麗な眉や目尻が上がる切れ長の細い眼、鼻筋はよく通り、小さな口を刻む細面の面貌が表現される。体躯はプロポーション良く、引き締まる。衣の襞(ひだ)は左右対称で規則的に配される。10世紀後半から11世紀へかけての制作が想定される。
【平安時代(後期)像高 88.1センチメートル】

湖北の仏像6
木造十一面観音立像 木之本町石道 石道寺蔵

 石道寺(しゃくどうじ)の本尊十一面観音立像の厨子内に安置される像である。かつて石道の集落の上流にあった己高山高尾寺の本尊と伝える。錆地(さびじ)でわずかに漆箔(しっぱく)を残している。頭体幹部を、右手の前膊(はく)部と左手の上膊部までを含め、ヒノキの一材から彫出し内刳りを施さない。髻頂(けいちょう)に仏面を一面、天冠台上地髪(じはつ)部に十面を配する。左手は屈臂(くっぴ)して華甁を執り、右手は垂下して掌(たなごころ)を前に向けている。面貌は古様で、胸・腹のくびれも明快に表現され、条帛(じょうはく)や裳(も)などの衣文(えもん)線も明瞭に刻まれる。しかし腰を左に捻(ひね)りながら、少し硬直化した印象の造形や個々の刻線も総じてしなやかさに欠けるものがある。10世紀末から11世紀の初め頃の制作と考えられる。
【平安時代(後期)像高 107.3センチメートル】

湖北の仏像7
木造聖観音立像 湖北町山本 常楽寺蔵

 山本山の中腹に建つ常楽寺に伝わる像である。山本山から北へ賤ヶ岳に続く尾根上には、130余基の古墳が連なる国史跡古保利古墳群がある。常楽寺の草創は詳らかではないが、山本源氏山本判官義経がこの寺を祈願寺として崇敬し、七堂伽藍を整備したという。本像は、像の大半をヒノキの一材から彫出し、内刳(うちぐ)りは施さない古様の構造からなる。条帛・天衣(てんね)・裳ともに輪郭のみを表し、衣文線をいっさい表現しない点に特色がある。奥行きのない胸、肉付けを抑えた体躯の表現から、平安時代の後期、12世紀の制作と考えられる。
【平安時代(後期) 像高 101.3センチメートル】

湖北の仏像8
木造十一面観音立像 米原市米原 青岸寺蔵

 青岸寺は、JR米原駅の東方、太尾山西麓に建ち、室町時代に近江守護・佐々木道誉が開創したと伝える。本像は、その大半を一材から彫出し、内刳りは行わない。表面は、漆箔や彩色を施さず素地(きじ)のまま仕上げているが、全体に赤っぽい染料を塗り透(す)き漆がかけられ、いわゆる檀像(だんどう)彫刻を意識しての造像とみられる。左右対称的なバランスで直立し、全体に痩身を強調した表現となっている。鎌倉時代も後半、13世紀から14世紀にかけての制作とみられるが、裳裾の広がった安定感は、この時代には珍しく、他に先行する図像や作例に倣(なら)ったものであろうか。
【鎌倉時代 像高 56.2センチメートル】

http://www.city.nagahama.shiga.jp/section/rekihaku/
湖北の仏像0

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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