大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥彫刻の源流

201211-2.jpg

 最近、鎌田茂雄『仏教のきた道ー東アジア仏教の旅』(1985年原書房)を読んで、日本への仏教および仏像伝来について改めて考えさせられました。仏像について言えば、シルクロード~中国~朝鮮半島~日本という単線的な<陸路>の道(これも複数ある)だけではなく、インド~中国沿岸部~東アジア(その一つとしての朝鮮、日本)への<海路>の道もありえ、さらに、多様なルートからの伝播をつうじて、その様式も単純には類型化できないといった問題提起であると思います。
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%9D%A5%E3%81%9F%E9%81%93-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%8E%8C%E7%94%B0-%E8%8C%82%E9%9B%84/dp/4061595903/ref=sr_1_55?s=books&ie=UTF8&qid=1368337680&sr=1-55&keywords=%E9%8E%8C%E7%94%B0%E8%8C%82%E9%9B%84

 東京国立博物館の東洋館に行ってきました。「東博 仏像大好きコース」の解説にはこんなことが書いてありますよ。これって参考になりますかあ?

 【仏像の誕生】 1世紀ごろ初めて仏像が造られたのはパキスタンのガンダーラとインドのマトゥラーです。ギリシャ彫刻を思わせるガンダーラ仏をはじめ、顔立ちも姿も日本の仏像とは大きく異なる・・・仏像の初期の作例、クシャーン朝・2世紀以降のガンダーラの作品をはじめ、古代インドの仏教美術を中心に展示する・・・

 【シルクロードの仏像】 インドから西域を通って中国へと伝わった仏像。ここでは、インド風でありながら彫りの浅い顔立ちの菩薩頭部や、三国伝来の仏像として有名な京都・清凉寺釈迦如来立像に似た小像など・・・シルクロードのオアシス都市トゥムシュク、ホータンやクチャ(キジル)につくられた石窟寺院の出土品・・・大谷探検隊の将来品を中心にホータン、クムトラ石窟等の出土品、石窟の壁画を紹介します。トゥルファンの寺院に用いられた蓮華紋の瓦塼類とベゼクリク石窟・キジル石窟の仏説法図と敦煌壁画の模本を展示します。

 【中国の仏像】 インドから西域を通って中国に仏教が伝わったのは漢時代(1世紀)のこと。仏教が定着し、国家的な造営が行なわれたのは南北朝時代、5世紀以降になります。その後、唐時代(7~10世紀)まで中国では魅力のある仏像作品が生み続けられました。ここでは中国彫刻の最盛期である南北朝時代から唐時代の仏像(石造彫刻、金銅仏など)を中心に展示しています。

 【朝鮮の仏像】 朝鮮半島に仏教が伝わったのは、高句麗、百済、新羅が鼎立した三国時代の4世紀から5世紀です。ここでは、三国時代から統一新羅(6~10世紀)、高麗時代(10~14世紀)までの金銅仏をご覧ください。主に三国時代から統一新羅、高麗時代の金銅仏、瓦磚、仏具を展示します。
(参考)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-359.html

 もちろんです。佐々木教悟他著『仏教史概説 インド篇』(1966年 平楽寺書店)のインドから西域、中国の伝播の下りには、その点について簡潔ながら要点のはっきりした記述があります。

 要はこういうことだろ。あんまり日本の仏像様式史みたいなキッチリとした、かっこよい見方はなり立たない。いろんなところから入ってきて、日本は極東の東端、いわば最終着駅みたいな所だから、ここで滞留しその後亡び、あるいはうまく残って洗練される可能性があると言うこと、じゃないかな。

 あいかわらず考証ぬきでドンと飛躍していますね。でも、鎌田茂雄氏が言わんとしているある部分はそういうことかも知れませんね。

 久野健先生の1970年代後半から80年代初頭に書かれた本を最近、系統的に読んでいて、仏像の様式史はとても難しいと改めて思いました。『アフガニスタンの旅』 (1977年)、『白鳳の美術』 (1978年)、『敦煌石窟の旅』 (1981年)、久野健、杉山二郎、石井久雄、渡辺俊文『龍門・鞏県石窟』 (1982年、以上いずれも六興出版)の5年間の集中的な海外比較論では、多くの思いがけない共通点が彼我の仏像で部分的にはありながらも、これまでの単一な様式史では現地現物の仏さまとの関係がなかなか明解に説明できない悩みもみてとれるような気がします。
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%97%85-1977%E5%B9%B4-%E4%B9%85%E9%87%8E-%E5%81%A5/dp/B000J8YCT8/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1368364372&sr=1-2&keywords=%E4%B9%85%E9%87%8E%E5%81%A5%E3%80%80%E5%85%AD%E8%88%88%E5%87%BA%E7%89%

 より本質的にモノゴトを考える必要がありそうだね。たとえば上記の仏教伝来だが、公伝では百済経由となるが本当にそれが正しいのか。

 知ってますよ。百済の聖明王から仏像と経論がもたらされたのは538年説と552年説があるのですね。

 百済経由ではないとすると、中国からの伝来についてどう考えるかということですか?

 陸路で朝鮮半島、そこから海上をへて日本へ、ということであれば、4世紀から5世紀の朝鮮伝来説以前はありえないことになるね。しかし、中国など別のルートがあったとすれば話は別だ。
 松本清張編『銅鐸と女王国時代』(1983年 日本放送出版協会)は面白い。卑弥呼の時代以降、九州は一定の工業生産力をもち相当な文物の蓄積があった可能性が示されている。「魏志倭人伝」では239年の朝貢が記載されているが、中国への仏教伝播がBCとACの変わり目くらいだとすれば、この時期中国にはすでに仏教は十分に移植されていたことになる。
 
(参考)
http://www.amazon.co.jp/%E9%8A%85%E9%90%B8%E3%81%A8%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%B8%85%E5%BC%B5/dp/4140083298

 でも卑弥呼の時代は、日本(倭国)は遅れた野蛮な地だったのではないですか?

 いやいやそれはどうでしょうか。「魏志倭人伝」を読んでみると、これは中華思想まるだしの感があり、先進国中国(センター)に対して属国はどこも辺境(ペリフェニー)に描かれていますね。でも、日本(倭国)はそのなかにあって、比較的強国であったとも言えます。朝鮮「広開土王碑」では、391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとありますからね。

 372年に百済が倭王に対して七支刀(しちしとう)を贈ったことも、聖明王から仏像と経論がもたらされたことも、厳しい朝鮮半島の政治、軍事情勢のなかでの百済は倭国からの援軍、援助を期待しての外交上の措置という見方があります。

 聖明王というのは、聖徳太子に似た良い名前だねえ。名君が日本に仏教を教えてくれたといったイメージなんだが、その実、結構切羽詰っていたということかな。

 仏教伝来は、あくまでも公伝、つまり公的なもの、為政者サイドの記録文書上の扱いだが、実際にはもっとはやく伝わっていたことだろう。止利仏師の祖父にあたる司馬達等が高市郡で仏像を安置したのは「扶桑略記」によれば522年。司馬達等は中国南梁 (武帝時代:502年 - 557年)の人との説もある。
 飛鳥彫刻の源流は、朝鮮ルートだけではない。中国からの海の道経由もある。だからこそ、そこには多様性があり、さまざまな流派が共存、あるいは切磋琢磨したのではないか。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/tb.php/363-f2216a84
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad