大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子について(3)

聖徳太子images


 聖徳太子は用明天皇の子ですね。587年7月に物部守屋を蘇我馬子とともに滅ぼす戦争に聖徳太子は参加していますが、この時に太子は14才だったということで実戦とは関係のうすい象徴的な存在とも言われますが、彼の早熟ぶりからはおそらく相応の判断力をもった若き指揮官だったかも知れませんね。時に用明2年。彼は「天皇の皇子」としての参戦でした。
 次の天皇は崇峻ですが、592年11月に暗殺されます。在位5年目でしたが、これにも蘇我馬子とともに太子は加担していたと言われます。19才の時ですね。翌推古元年に聖徳太子は摂政になります。ちょうど二十歳の時ですね。

 この年(593年)に太子の誓願によって難波に<四天王寺>が建立されます。また、596年には蘇我馬子が<法興寺(現飛鳥寺)>を建立していますし、598年には<中宮寺>が創建されたと言われます(法隆寺伽藍縁起併流記資材帳)。

 601年28才の時に斑鳩宮を造り、603年12月には「冠位十二階」、604年4月には「十七条憲法」を定めます。31才ですね。太子の10代は血なまぐさい政争の時代、20代は宰相として内政で猛烈に頑張った時代といった感じを受けますね。

 606年4月に止利仏師が<飛鳥寺>金堂に丈六の銅製釈迦如来を安置し、7月には<橘寺>が創建されます(法隆寺東院資材帳)。さらに翌年、父用明天皇のために<法隆寺>金堂の薬師如来が造られます(光背造像記)。聖徳太子もきっと身近でご覧になっていたでしょうね。

 外交にスポットをあてると、600年任那救援、新羅討伐のために軍派遣、さらに602年に来目皇子を新羅征討将軍に任命。自らの若き日の物部守屋掣肘を思ったかも知れませんね。607年には小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。百済の使を伴って来朝。この年、太子は42才です。20代後半から30代を通じてこの時まで、聖徳太子の外交政策の記述が続きます。史家は内政にくらべて外交についてはあまり重視していないように思えますが、太子の30代は相当、外交に腐心していた様子が窺えます。対中、対朝鮮政策でも太子はそれ以前にはない大きな成果を上げています。

 612年は熊凝寺(のちの額安寺)が創建されます(太子伝)。翌年には難波から大和に至る大道(横大路、現在の竹内街道)や「太子道」が整備され、さらに<法隆寺>が建立されたとの記録があります(興福寺略年代記)。また、616年に聖徳太子が<法貴寺>を建立し、秦河勝に与えたとも言われます(法貴寺縁起)。

 最後に仏教学者としての聖徳太子ですが、異説も多く信憑性は乏しいとの説も強いながら、『勝鬘経義疏』、『維摩経義疏』、『法華義疏』の三部作を記したと伝えられます。その足跡は大きいですね。

 622年に磯長に太子は葬られますが、この年<法輪寺>が建立されたと伝えられます(聖徳太子伝私記)。そして光背銘文にある釈迦三尊が翌年<法隆寺>金堂に造像されます。仏教史のみならず、仏教寺院、仏像の歴史からみても太子の存在がいかに巨大かに驚かされますね。

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