大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

中宮寺観音

中宮寺観音2
 あまりにも有名な仏さまなので解説、感想はあまたある。まずは、JR東海のものから。

【以下は引用】

聖徳太子ゆかりの尼寺。中宮寺縁起

日本最古の尼寺・中宮寺は、聖徳太子が生母・穴穂部間人皇后(あなほべはしひとこうごう)のために創建したといわれています。
現在の中宮寺は、法隆寺東院伽藍の隣にありますが、創建当時は現在地より500メートルほど東に位置し、金堂、塔を持つ立派な伽藍だったことが発掘調査によってわかりました。
天平時代の文書に「聖徳太子創建七ヶ寺」のひとつとの記載が残る太子ゆかりの中宮寺は、平安、鎌倉、室町の時代の流れのなかで幾度かの荒廃と再興を経験し、1602(慶長7)年、慈覚院宮を初代門跡に迎えました。以来、門跡尼寺として今日に至っています。門跡とは、皇族や貴族が住職に就いた場合の呼称であり、そのような格式の高い特定のお寺を門跡寺院と称します。

1400年の「美笑」。本尊 如意輪観音像(国宝 菩薩半跏像)

中宮寺の本尊は、とても美しい観音さま。右手をそっと頬に当て、優しい微笑みを浮かべる如意輪観音像(国宝 菩薩半跏像)は、人々の信仰の対象として敬われてきたばかりでなく、飛鳥時代の彫刻の最高傑作としても有名です。
神秘的な黒い光沢を放つ如意輪観音像ですが、その色彩は下塗りの漆の色が現れたもので、造立当時は現在とは異なり、全身が鮮やかに彩色(さいしき)されていました(身体は肌色だったともいわれています)。また宝冠や華やかな装飾具を身に着けていたと推測されます。そして、如意輪観音像が愛され、称賛されている理由は、何といっても魅惑の微笑。優しさに満ちた表情は、「古典的微笑(アルカイックスマイル)」として国際的にも高く評価されており、エジプトの「スフィンクス」、レオナルド・ダ・ヴィンチ作「モナ・リザ」と共に「世界の三つの微笑像」と呼ばれています。
中宮寺を訪ねて如意輪観音と向かい合ってみてください。1400年のあいだ、人々を魅了してきた美しいほほえみが待っています。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/chuguji/special/

中宮寺観音N3

 概説はおおむねこうしたものだが、では、中宮寺観音はいつできたのか?「七世紀半ば過ぎの孝徳斉明朝ごろ」という説がある。

【以下は引用】

中宮寺の創立について 大橋一章

はじめに
 奈良斑鳩の中宮寺はわが国最古の尼寺の一つで、今も美しい半跡
思惟像の彫刻と色鮮やかな刺繍製品の天寿国繍帳が伝来している。
ともに国宝に指定された飛鳥時代を代表する貴重な文化財である。
 現在の中宮寺の伽藍は法隆寺の東院にあたかも寄り添うがごとく
建っている。これが当初のものでないことはいうまでもない。創建
の地は現在地から東方四百メートルのところで、そこには今も当初
の金堂と仏塔の基壇といくつかの礎石を見ることができる。かつて
この地の発掘調査をした結果、中宮寺は創建法隆寺たる若草伽藍と
同じ時代に建立されたことが明らかとなったが、文献史料によって
直接中宮寺の創立時代を明らかにすることはできない。
 私は平成元年九月『斑鳩の寺』と題する小著を刊行し、その中で
中宮寺の創立についても私見を述べたが、概説書のため充分に論じ
尽せなかった。そこで、この小論ではあらためて中宮寺の創立に
ついて、発掘結果や聖徳太子の七寺建立説話と講経説話を通して述べ、
さらに誰がいつつくったのか、また本尊の半蜘思惟像制作の担当工
房についても言及することにしたい。
<中略>
 それ故、私は本像を止利式仏像を制作してきた造仏工たちが、法
隆寺金堂の釈迦三尊のような厳格な雰囲気のものから同じく金堂の
薬師像のような柔和な雰囲気の仏像へと変化していたその延長線上
でつくられたものと把えたい。前章で述べたように、かつて飛鳥寺
を造営していた造寺工と造仏工たちは法隆寺の造営にも参加し、法
隆寺の工事が一段落するとさらに四天王寺へと移ったと思われる。
斑鳩にのこり法隆寺を完成させた工人たちが、中宮寺をはじめとす
る斑鳩の寺院の造営を担当したであろうが、第一世代の造仏工の鞍
作鳥は推古三十年太子の病気平癒のために釈迦三尊をつくった。お
そらく第二世代の造仏工たちが中宮寺本尊のこの像をつくったので
あろうが、法隆寺という寺家が中宮寺造営を推進したのであれば、
金堂の規模は小さくなり、それに合せて本尊も丈六級の金銅仏から
等身の木彫、すなわち樟像として制作することになったのであろう。
さらにいえば、柔和な雰囲気の本像に止利式金銅仏の厳格な特色で
ある鋭利でシャープな彫り口が認められるのもこうした経緯のため
ととわれる。制作年代は中宮寺の造営が進まず、また法隆寺金堂の
薬師像が七世紀半ばごろとすると、本像は薬師像よりは後の七世紀
半ば過ぎの孝徳斉明朝ごろになろうか。

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8524/1/80775_46.pdf

中宮寺菩薩(拡大)

この完成された半跏思惟像は、広隆寺の半跏思惟像と共通点が多い。

1. どちらも聖徳太子ゆかりの寺院にある。
2. 形式が半跏思惟像で共通する。
3. 両像とも木彫である。
4. 製作年代が飛鳥時代頃と近似している。
5. 尊顔からうける凛然としたイメージがある。

中宮寺観音

一方で、異なっている点もある。

1. 広隆寺像は朝鮮半島請来、中宮寺像は本邦でつくられた可能性が高い。
2. 材質は、広隆寺像はアカマツ、中宮寺像はクスノキである。
3. 工法は、広隆寺像は一木造り、中宮寺像は特異な寄木造りである。
4. 形式は、広隆寺像はやや古拙、中宮寺像はプロポーション的にもより洗練されている。
5. 修復では、広隆寺像の尊顔はかなり削られて整えられており、中宮寺像の尊顔はよりふくよかである。

中宮寺観音

そこから以下をいささか大胆な私見として指摘したい。

1. 広隆寺像を相当程度、参考として中宮寺像はつくられた。
2. 中宮寺像が「一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている」※1のは、特定のクスノキを用いたかったからではないか。おそらく聖徳太子と強いゆかりの木材が選定されたのではないか。
3. 上記、寄木造りをもちいたもうひとつの理由は、体内になんらかの太子ゆかりのものを残したかったからではないか(歴史的な修理過程でそれは失われた可能性があるのではないか)。
4. 尊顔は、太子その人ではなく、太子の妃を写した可能性がある。
5. 当初の造像の仏師、工房の技量は圧倒的にすばらしく、その後の補修も広隆寺像にくらべて慎重、丁寧になされたゆえに今日の姿があるのではないか。


※1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AE%AE%E5%AF%BA

【中宮寺 菩薩半跏像の魅力】
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1809992.html
【広隆寺&中宮寺 アンソロジー】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-226.html

中宮寺菩薩

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