大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子について(6)

救世観音butuzou4


 最近の聖徳太子像にはほんとうにいろいろな見方がありますね。先生は、どう思いますか?

 質問の趣旨がよくわからないな。なにについて聞いているのか。

 失礼しました(独り言<いつもながら先生は、難しい人だな・・。なかなかすぐにはこちらの疑問に素直には答えてくれないな>、一服おいて・・)。
 飛鳥・白鳳彫刻を勉強していて、聖徳太子のことがもっと知りたくなり、経典とともに先人の書いた労作を読んでいます。ぼくは、亀井勝一郎が『大和古寺風物誌』でしるされた聖徳太子像に秘かに共感をもっているのですが。

 なるほど。それでは、亀井勝一郎賞を受賞した上原和『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』(1975年 朝日新聞社)は読んだかな。

 とても蘊蓄のある作品なので、まだちゃんと理解しているとは言えないと思います。ただ、玉虫厨子「捨身飼虎」図を見ながら、太子、そして山背大兄王に引き継がれた捨身の思想を強調しています。

 それだけではないだろう。この本の<凄さ>は、亀井的な太子像の明らかな転換にあると思うね。

 亀井さんの太子像は悲劇の、苦悩の皇太子といった感じですね。それに対して、上原さんの太子像も基本のトーンはかわりませんが、むしろより主体的というか、物部制圧にせよ、崇峻暗殺にせよ積極的な関与を前提として記述しています。

 そのとおり。さらに言えば推古天皇、蘇我馬子についての人物の見方は・・

 ウーン。推古天皇は美貌かつ男勝りの女帝。蘇我馬子は意外にも仏教の信仰に厚い融通のきかない官僚のドンといった書きぶりでしょうか。

 そして聖徳太子は推古、蘇我、自身の三者鼎立の、そう、「扇の要」であったといった感じじゃないかな。

 そこまでは書いていなかったと思いますけれど、瀬戸内海沿岸(松山~網干、加古川など)に相当な田畑を保有する経済的に確固たる基盤をもち、かつ、外交交渉の巧みさについても書いてあったですね。

 では、かってお札にも使われた有名な肖像画についての感想はどうだった・・

 ああした「ひ弱なインテリタイプ」ではなく、もっと戦闘的で男らしい大王のイメージですね。

 そうだね。上原は久米邦武氏の太子関連の文献の「確度分析」を一応評価しつつ、そこからこぼれ落ちた素材、評価の低い文献を丹念に渉猟して、実証的に新たな太子像を浮かび上がらせようとしているね。
 その太子像は、屹立する救世観音のように雄々しく、政治権力の中枢にいた。上原氏の良心的な記述では抑制されているが、そこからイメージされるのは相当な政治リアリストだ。

 確かに言われてみればそうですね。実は、先生の見方もそうなんですね・・。

 私はもっとラディカルかも知れないね。聖徳太子は若き日から軍事、政治とも権力中枢の闘争の只中にあった。しかも、それは蘇我ファミリーの有力な一員、もしかすると優れたリーダーの一角としての立場からだ。卓越した政治能力と人を惹きつける素晴らしい人徳もあったのだろう。
 しかも日々の政治リアリズムのなかで埋没するのではなく、<あるべき国家像>を自分の代で打ち立てようと懸命に研鑽、努力した。いわば「哲人政治家」を目指そうとしたふしもある。
 その一方、その一生は、亀井の言うような<美しい犠牲者>でも、また後世潤色された<神のような高潔さ>でもない。比較的早世はしたが、血に彩られた凄惨な権力闘争を勝ち抜いていくにたる強い肉体をもち、それは後年の厳つい太子像の作造に描写されているとも言えるかも知れない。だからこそ存命中は最後まで君臨し、その遺訓をつぐ山背大兄王を、抹殺というかたちで権力から完全に葬り去るのに、蘇我一族はその後20年以上の年月を要した。太子の権力が脆弱なら、もっと早くケリをつけていただろうし、これはいわば<蘇我ファミリー>内での血族間の権力を巡る内紛だ。

 『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』ではそこまでは書いていないですが、上原路線のイメージをもっと脹らませていくとそうした見方もありえると言うことでしょうか。もっと勉強してみます。

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