大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

サントリー美術館「高野山の名宝」展  快慶作品を見る

孔雀明王 快慶作 金剛峯寺

 明日で終了するサントリー美術館「高野山の名宝」展について、以下は快慶作品についての若干の感想である。実に良き作品を出展してくれたと思う(いずれも重要文化財)。

◆ 孔雀明王坐像 一躯 鎌倉時代 正治2(1200)年
◆ 執金剛神立像 一躯 鎌倉時代 建久8(1197)年
◆ 四天王立像 四躯  鎌倉時代 12~13世紀

【孔雀明王坐像 一躯 鎌倉時代 正治2(1200)年】
 
「伽藍孔雀堂の元本尊で、後鳥羽法皇の御願により仏師快慶が正治二年(1200年)に造立したもの。孔雀の背に乗るという絵画的な姿を、仏像彫刻として見事に完成させている。」(高野山霊宝館HPから引用)

 全体をいくどか回遊し、「孔雀明王坐像」の前に戻る。疲れて前におかれたソファーに腰を落とし、ここから遠望しながら漠然と思った。
  この作品を見ていると、快慶という仏師の「均衡へのあくなき希求」を感じる。自身のなかに堅固なる美の基準があり、彫を刻むまえに全体像が瞼に焼きついているような気がする。そして、それを具体的に形(フォルム)にしていける完全な技量をもっている。一瞬にして作品はすでに頭のなかで完成されている。あとは、それを具象化する作業が残っているだけだ。感性の鋭敏さとその効率よき実現、そこに快慶の快慶らしさがあると思う。

 比較において運慶には、はじめに意志力を感じる。内から湧き上がる芸術的なパッションのもと、作像に挑みかかる。作品は、意志力の表出が十全になされているかどうかに基準があり、そこに達するまで可変的に修正されることを否定しない。つまり鑿の運びは時間とともに自在に変わっていくイメージである。「静」の快慶、「動」の運慶の違いをそんな風に考えてみた。

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【執金剛神立像 一躯 鎌倉時代 建久8(1197)年】

 次に最近、快慶作と特定され重要文化財に指定された注目の「執金剛神立像」の前に戻る。
 この像を見ていて思い出したことがある。先般見た番組(『美の巨人たち』 快慶 国宝「善財童子立像」/2014年11月29日(土)夜10時00分~10時30分)であるが、良く練られた番組で楽しめたが気になる点もあった。
(快慶 国宝「善財童子立像」 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2078758.html

 それは、東大寺南大門の阿吽両像の比較で、足指の表現の違いに注目して、足指が地についている「静態的」な快慶とそれが反り返っている「動態的」な運慶といった指摘であった。ところが、どうだろう、この執金剛神立像の右足は、見事に反り返っている。安易な印象批評は禁物との一例かなとも思う。
 銘がでてきたので、快慶作と断定されるようになったが、以前は作風から快慶の真作には疑問符が付いていたようだ。
(快慶作の執金剛神立像、見つかる! http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-266.html

 「木造執金剛神立像は高さ約1・3メートル。昨年秋、仏像の首部分の内側に、鎌倉時代の仏師、快慶が使用した称号で「あん」と読む梵字(ぼんじ)と「阿弥陀(あみだ)仏」と書かれた墨書が見つかり、快慶の作品であることが判明した。
 木造深沙大将立像は高さ約1・3メートル。執金剛神立像と一対で造られ、同じく快慶の作品とみられる。いずれも国の重文に指定されている快慶作の「四天王立像」とともに高野山に安置されていた。
 これまで2像は写実的な表現など仏像の特徴から快慶一門の作品と見られていたが作者が分かっておらず、国の文化財指定は受けていなかった。古文書から2像を造らせたのが鎌倉初期の僧侶、重源であることも分かっており、作者や作品の背景が明確になったことで、文化財としての価値が高まった。」

http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-315.html

 ご尊顔をじっと見る。快慶はかの東大寺法華堂の天平の執金剛神立像を見ていたかなと思った。イメージはやや異なる。むしろ体躯ではなくお顔だけの比較であれば、新薬師寺の伐折羅(ばさら)大将像(下記)を連想する。快慶は、冒頭の東大寺南大門の仁王をつくっているのだから、動態表現だっていくらでも出来るのは自明。彼はあまり、そうした像は好まなかっただけではないか。施主から依頼があれば難なくこなすのは当然であったろう。今度は全体を遠目で眺める。絶妙なバランス感覚がある。ここでも「均衡へのあくなき希求」を看取することができる気がする。

<参考>
新薬師寺十二神像
新薬師寺 伐折羅大将像

【四天王立像 四躯  鎌倉時代 12~13世紀】

 最後に「四天王立像」について。快慶の現存唯一の四天王立像と言われるが、すべて快慶その人の鑿によるものか、快慶一門、慶派工房の共同作品かは考えておく必要があるかも知れない。また、これは東大寺大仏殿四天王像を造像するための試験作という見方もある。

快慶 金剛峯寺 四天王像

 「広目天に快慶の銘があることから、快慶とその工房の作と考えられる。特に快慶の直接の手になる広目天は、険しい忿怒の表情を見事にあらわし、腰を左にひねって立つ体勢のバランスの良さや、衣文表現の巧みさは四軀中でも際立っている。平氏による南都焼討ののち再興された東大寺大仏殿四天王像は、慶派によるもので、そこで広目天を快慶が担当していることからも、本像は大仏殿様を最も色濃く伝えていると考えられる。今は無き大仏殿像をしのぶことができる点でも重要な作例である。」(展示解説からの引用)

 四天王といえば、古くは法隆寺金堂、その強烈なインパクトにおいて、いまだ随一の東大寺戒壇堂のそれがあまりに有名である。東大寺再興にあたって、慶派の主要仏師は後者を拝顔し、あるいは修理にあたったかも知れない。
世紀の大事業、東大寺大仏殿再建の任にあった慶派は、上記引用にあるとおり、大仏を守る四天王を造像した。四丈三尺の像高を誇る巨大なものであったと伝えられている。なお、海住山寺の四天王像も著名だが両者は実に近似する。

 「大仏殿様四天王像は南都とその周辺地域を中心にある程度まとまった数の遺品が点在するが、そのうち現存最古の作例は和歌山・金剛峯寺像である。像内から発見された文書に建久ないし建仁の年号が見いだせ、十二世紀最末から十三世紀最初の制作と目され、かつ広目天像の足に仏師快慶の刻銘が認められ、快慶工房の作と考えられる。この金剛峯寺像と海住山寺像とを比較すると、たとえば広目天像の胸甲の折り返しの付いた特徴的な形態や両袖の翻るかたちが共通するし、持国・増長天の二躯では袴が膝下で脛甲の中に入るのに対し、広目・多聞天では脛の半ばまで袴が脛甲の上に垂れる点なども二組の四天王像で一致する。つまり、海住山寺像は金剛峯寺像と並び、一連の大仏殿様四天王像のなかでもとくに原像、すなわち大仏殿像に近い形相を有すると考えられるのである。」(http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k9.html

 さて、金剛峯寺四天王像を観察して思うのは、4像の性格表現の巧みさとそのバランスの良さである。ここでも快慶の個々の造像と四体群像における「均衡へのあくなき希求」が背後にあるのではないかと感じた次第である。

<参考>
☆この秋の話題 サントリー美術館「高野山の名宝」展
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-419.html
☆快慶 孔雀明王坐像 金剛峯寺 を見る 
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079120.html
☆快慶 執金剛神立像 金剛峯寺 を見る
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079121.html
☆快慶 四天王像 金剛峯寺 を見る
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2079153.html

快慶作品ギャラリー

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快慶 弥勒菩薩立像  ボストン美術館蔵  
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-317.html

快慶 大日如来 石山寺

快慶 大日如来 石山寺2
快慶 大日如来坐像 石山寺多宝塔本尊
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html

快慶 藤田美術館
快慶 地蔵菩薩立像 藤田美術館蔵
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-166.html

快慶地蔵菩薩立像
快慶 地蔵菩薩立像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-85.html

快慶木造騎獅文殊菩薩及脇侍像
快慶 文殊菩薩及脇侍像 安倍文殊院
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-354.html

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日本の美術78 運慶と快慶 

日本の美術241 阿弥陀如来像 

日本の美術314 文殊菩薩像

【醍醐寺】
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2014toku/daigoji/daigoji.pdf

【浄土寺】
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-293.html

(以下は、かつて書いた文章の再掲です)

運慶も、快慶も康慶のもと同門として力を合わせて活躍した。康慶の引いた路線を太く確かなものとする「経綸」の才をその子運慶はもっていた。一方、快慶は運慶とは異なる作風を築き上げたが、この二人の技能の高さをもってすれば、ある程度、標準的な手法で量産をすることも難なく出来たことだろう。
 雄雄しき運慶風、美々しい快慶風との色分けはできるだろうが、根底では共通する全体構成のマッスルさ、写実の妙も特質といえる。

 それは、興福寺、東大寺といった南都の古代からの歴史的、膨大な蓄積をこの二人が十分に咀嚼していたことからこそ可能となった。飛鳥、白鳳、とくに天平、貞観期の日本彫刻史上黄金期の作品研究を、足下にあってかれらは怠りなく行っていたであろう。その多くは平家焼き討ちによって大破、焼却、滅失してしまったが、その再興は南都仏師としてかれらを奮い立たせるものであった。1183年の運慶願経にも快慶は名を連ねているが、運慶工房を担う若き俊英の熱き思いが伝わってくる。

 一方で、金剛峯寺「執金剛神立像」快慶墨書銘などが物語るように、慶派は金剛峰寺、東寺の諸像の修理や造像も行い、如来、菩薩、明王、天いずれのレパートリーにも臨機応変に対応可能であった。さらに、大規模造像技法は定朝工房によってすでに確立されており、これもかれらは我が物としていた。
 かれらの目指したのは、今日からみれば「総合芸術」であり、たんなる模倣を超えるものであった。①南都仏像の先行研究、②儀軌(密教)の正確な習得、③量産技法の完全マスター、以上が根底にあったうえで、そこからの独自性の表出としての雄雄しき運慶風、美々しい快慶風であったと思う。

 快慶の作品には静謐さがある。なんど観ても飽きず、観るほどにその美しさに新たな発見があるように感じる。しかも、その仏様は見るものの心を落ち着かせ、共有する時間と空間に特有の品位を発散する。
 快慶の40以上の現存作には多くのヴァリエーションがあるが、もっとも作例の多いのは阿弥陀如来である。東大寺再建の大規模な勧進を行う必要のあった重源との関係もあったかも知れないが、彼自身、阿弥陀如来については当代随一の自負もあり、得手としていたと思う。
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-268.html

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