大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

渡来人の系譜 2  百済・高句麗と「亡命準備」論

大阪市美術館1

百済は660年に新羅・唐連合軍によって滅ぼされる。さらに8年後には高句麗が滅亡する。新羅は676年に唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一する。そうした情勢は日本(倭)にも刻々と報告されていたであろう(白村江の戦いは663年8月、ここで日本の百済救済軍は、新羅・唐連合水軍に敗れる)。

日本ではじめて造られた寺、法興寺の建立のスタートは588年である。日本における造寺のはじまりは、蘇我一族によって主導され、596年法興寺(→飛鳥寺、日本書紀)、607年法隆寺(法隆寺金堂薬師光背造像記)などが創建されたのは蘇我馬子、厩戸(うまやど)皇子(→聖徳太子)らの皇族・蘇我ファミリーの仏教振興への強いリーダーシップによる。
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しかし、これは百済滅亡のわずかに約半世紀前である。さかのぼって、577年には造寺、造仏師が百済から渡来する。すなわち、建築と造形の専門家が来た。そして588年には瓦博士他がこれも百済から渡来する。推古天皇の即位が592年、聖徳太子が摂政となったのが593年。6世紀末迄は百済、新羅、高句麗など、朝鮮半島から大きな文化の移入があった。ここでは3つの点が気になる。

第1に、法興寺は天皇によって建立されたものではなく、蘇我氏のいわば氏寺である。
第2に、蘇我氏は百済系の豪族だが、法興寺の造寺にあたっては、百済からの技術者が決定的に大きな働きをしたであろう。
第3に、最近の発掘調査によれば、その伽藍配置は高句麗に淵源があり、法興寺はいわば、百済・高句麗様とでもいうべきものであったかも知れない。


重要なのは、百済・高句麗からの技能者集団ほかはなぜ、危ない海路を渡り辺境の地、日本(倭)の地を踏んだのかである。これは、今風で言えば「亡命準備」だったかも知れないと思う。百済・高句麗の権力者・ブレーン集団は、万一、朝鮮半島での新羅との戦いで敗れた場合の準備を考えていたのではないか。そして、百済・高句麗の人々にとっては、そのダウンサイドのシナリオ(悪夢)は現実となる。

それだけであれば、単純に朝鮮からの渡来人、帰化人(亡命者)が日本の文化をつくったことになる。だが、日本(倭)にも百済・高句麗一辺倒ではないバランス・オブ・パワーの戦略があった。聖徳太子(あるいは蘇我ファミリー)は、新羅とも付き合い、同時に中国大陸からの直輸入ルートの開拓に着手する。607年小野妹子を第二次遣隋使として派遣(翌年にも再派遣)、609年に小野妹子が帰還。610年3月には高句麗王、朝貢。10月には新羅、任那の使者入京、さらに611年8月に新羅、朝貢。614年6月犬上御田鍬を第4次遣隋使として派遣、翌年、犬上御田鍬帰朝。ここから遣隋使から遣唐使に続く永い歴史がはじまる。

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百済・高句麗の人脈からみれば、日本(倭)は辺境の地ながら、同盟国でありラスト・リゾートであったかも知れない。そうした視点からも仏像をみていくことも必要だろう。

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