大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

渡来人の系譜 3  蘇我一族との関係

大阪市美術館2

  今回は蘇我氏と渡来人の関係について少し考えてみたいと思います。蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の系譜と後裔たる蘇我石川朝臣の系譜などがありますが、古代国家の最強の大臣であり、天皇家への外戚政治の嚆矢。数代にわたって経綸の才に優れるのみならず、文化興隆においても抜群の貢献をした存在ですが、そのバックには渡来人・帰化人勢力がいた、あるいはそのパトロンであったことは良く知られています。

  稲目以前に、蘇我満智ー韓子ー高麗というルーツがあると言われます。しかし、一方で、高麗ー稲目の間には一種の切断面があるとの説もあるようですね。ここで興味深いのは、そのルーツの名前ですが、満智ー韓子ー高麗をそれぞれ百済、新羅、高句麗に比定して、渡来人・帰化人の祖という点を強調する架空の系譜と考える見方もあることです(黛弘道編『蘇我氏と古代国家』古代を考えるシリーズ 吉川弘文館 1991年 pp.5-11)。 

蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿について、 さん、簡単に紹介してもらえますか。

  はい。まず、稲目さんですが536年に蘇我一門ではじめて大臣となったようです。欽明天皇の時代(540年~)になると、天皇からの信任をえて、二人の娘さん、堅塩媛さんと小姉君さんが天皇のお妃になります。堅塩媛さんは7男6女を産んで、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)がその後即位します。小姉君さんも4男1女に恵まれ、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位しています。堅塩媛さん、小姉君さんの子宝、すごいですね!

  あのう、歴史的人物なので「さん」づけでなくていいですよ。どうぞ続けてください。

  次は、馬子さんです。お父さんは稲目さんですから、エーと堅塩媛さんがお姉さんで、小姉君さんが妹さん。天皇の后に両脇を支えられているような方ですね。奥様は、物部守屋の妹さんで、お子さんが、善徳さん、倉麻呂さん、蝦夷さんで、入鹿さんや山田石川麻呂さんは孫になるのかな。 娘さんの河上娘さんは崇峻天皇に嫁ぎ、法提郎女さんは田村皇子に嫁ぎ、刀自古郎女さん、この人有名ですね!だって聖徳太子の奥さんですよね。こんなにすごい家系ですから、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え蘇我氏の全盛時代を築いたとあります。

  蘇我氏と渡来人の関係についてということだと、588年に娘の善信尼らを百済へ留学させたことがまず注目されます。馬子は崇峻天皇を592年に暗殺しますが、その手を下したのが東漢駒です。今風だと子飼いの仕掛人のようなものでしょうか。その東漢駒も崇峻天皇后で馬子の娘、河上娘の喪を汚したとして馬子に殺されます。死人に口なしです。
 その後、欽明天皇の皇女で、堅塩媛の娘である炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とします。馬子にとっては母方の姪御ですね。


  (負けじとばかりに)次の蝦夷さんですが・・・

  ご苦労さまでした。さん、もうここでいいです。かつてこのあたりは議論をしましたね。※1

  でも、ここから仏像や止利派の話になるのでしょう・・・

  それも一応、前にまとめましたね。むしろ、いままで出てこなかったのですが、馬子の兄弟、境部摩理勢(さかいべ の まりせ)や、さんが冒頭指摘された後裔たる蘇我石川朝臣の動向をふくめて渡来人との関係が次の課題ではないですか?※2

  その通り!渡来人との関係では、ここからは蘇我氏の勢力分布図をよく見て、地理学や考古学からの成果が重要ですね。

  私ばっかり仲間はずれにして・・・(涙声)。これってコミハラですよう。

  そんなことはないです。ご機嫌、直してください。また、一緒に議論しましょう。 

※1 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html
※2 http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-308.html

蘇我氏系譜
蘇我氏系譜
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Soga_faminy_tree.svg

馬子の兄弟、境部摩理勢(さかいべ の まりせ)は上宮(聖徳太子)側について、公然と蘇我本家に楯をついて滅ぼされ、蘇我石川朝臣は、乙巳の変で中大兄皇子・中臣鎌足側について入鹿を滅ぼすが、後に冤罪で自害に追い込まれる。ここでは、蘇我氏の多様性と政治的な分派に注目しておきたい。

(出典)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%83%E9%83%A8%E6%91%A9%E7%90%86%E5%8B%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%80%89%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%BA%BB%E5%91%82

蘇我氏他大和勢力図
蘇我氏勢力図
http://blogs.yahoo.co.jp/mushipro75/63778641.html

古代の勢力図は凄まじい権力闘争によって塗り替えられていった。まず、葛城氏が滅ぼされ、その領民(渡来人・帰化人)を占有したことで蘇我氏は力を得る。名門大伴氏は物部氏との闘いに敗れて没落。その物部氏を討ったのが蘇我氏である。しかしその蘇我氏も巳の変で中大兄皇子・中臣鎌足によって滅亡の運命を辿る。蘇我の天皇「外戚政治」の威力を見ていた中臣鎌足(阿部氏)がその後、藤原一族の祖先であり、藤原不比等こそ、後に外戚政治の頂点に立つ。この勢力図はそのルーツを見るうえで興味深い。

甘樫丘と東麓遺跡発掘現場の位置関係
甘樫丘と東麓遺跡発掘現場の位置関係
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_11_16.htm

近年の考古学の成果はめざましく、それによって多くの新たな事実が明らかになっている。物証の威力は歴史を書き換える。上記の他にも、蘇我石川朝臣が建立した山田寺や、百済大寺→大官大寺の発掘調査の進展も大きな話題となった(黒崎直『飛鳥の宮と寺』日本史リブレット 山川出版社 2007年 pp.19-33)。

渡来人としての東漢氏の実力
東漢氏
http://www.rekitan.co.jp/styled-2/styled-20/blog-2/files/45a6e3041471ea6774afd196c7b3d070-30.html

東漢、秦、西文といった渡来人・帰化人は新知識を満載した、なくてはならない強力なテクノクラートだった。他にも葛井、船、津といった一族もある。上記の分布図でもその一端がわかるが、彼らをどう取り込むかが外交政策でも外戚政治上も重要な事柄であったことは間違いない。秦氏が平安遷都で大きな役割を演じたことは有名だが、東漢氏も実にしたたかな集団であったろう。
東漢駒は、蘇我馬子に嵌められたという見方もあるが、裏を返せば、東漢駒自身が外戚政治に一歩踏み込もうとして抹殺されたとの見方もある。

コメント

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  • 2016/05/29(日) 00:00:56 |
  • |
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Re: 面白く読ませてもらいました。

MMH さま

励みになるコメント、ありがとうございます。どこまで考え方を深められるかどうか、わかりませんが、引き続き精進したいと思っています。宜しくお願いします。

大和織工

  • 2016/05/31(火) 00:29:19 |
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