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大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

無著と世親

無著と世親

『無著と世親』(小説仏教シリーズ15 ) 木村園江 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17600508.html

工夫されたプロットで、筆力ある作品。2人の主役は、弟・世親(ヴァスバンドゥ)がまず前半で集中的に描かれ、後半に兄・無著(アサンガ)が登場しこれもその厳しい修業の過程が詳述される。そして、いよいよこの2人が邂逅(再会)した後、物語は終盤に劇的な展開をみせる。

このプロットは、実は「止揚」の過程を描くものでもあり、ヴァスバンドゥはバラモン教(外道)から解脱し、これを破砕することで小乗仏教の一大論客として成長する。王家の手厚い庇護をうけ、いわば国教化した大僧侶に栄達する。この小乗仏教に真っ向対峙し、それを超克したアサンガは、弟のヴァスバンドゥを折伏するのだが、それは論戦に勝つことよりも、実践哲学たる大乗仏教の優位性を説くことにあった。したがって、そのプロットはバラモン教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程を描くことに主眼がある。

民衆に分け入り、人々の救済にこそ仏教の実践的な意味を見い出すアサンガは、ヴァスバンドゥとの論戦を制するけれども、その後の学理究明、その普及においてはヴァスバンドゥがより優れ、アサンガの最良の後継者となる逆転の展開には鮮烈な効果がある。

さらに、仏に成るべく克己に集中する小乗仏教は、貴族主義的でその信奉者もカースト制における支配階層に限定される。対して、最底辺の人々の救済をも射程にいれた大乗仏教は、その思想の大きさにおいて小乗仏教を包摂する関係にある。ヴァスバンドゥがそれまで築いてきた唯識論哲学は、けっして無為ではなく必要なる解脱のプロセスであり、むしろ、大乗仏教に乗りかえることによって、よりその普遍性を獲得する。こうしたプロットは実によく考えているなあと感心した。学理解釈にも必要な部分では筆をすすめた苦心の作である。


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無著(アサンガ)

無著と世親については、日本仏像彫刻においては、運慶工房の秀作によって、広く知られている。世親像については、1975年の東京での展覧会ではじめて見た。その後、興福寺北円堂でいくども無著像、世親像にはおめにかかっている。鎌倉彫刻における写実主義の頂点にたつ作品というのみならず、この仏教界の偉人を、イマジネーション豊かな巨魁として表現したその技量に感服する。

(参考)日本、会心の国 254!ー  運慶工房の秀作、秋の公開
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1969475.html

(参考)無着、世親
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1830204.html

日本の美術 第10号 肖像彫刻 編:毛利久 昭和42年 至文堂
世親(ヴァスバンドゥ)

無著と世親の仏教哲学上の位置づけについては、かつて空海について調べていた時に、いささか学んだ。唯識論は、西洋哲学の分析法と意外なくらい共通する部分もあり、フロイドの「リビドー説」を先取りしているような部分もある。人間の徹底した哲学的な営為は、洋の東西を問わず通底するものなのかも知れない、とも思う。

(参考)空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-252.html

本書はさほどのボリュームではないが、1週間をかけてじっくりと読んだ。木村園江女史の緻密な筆致を味わいつつ、この仏教哲学者の話は、仏像鑑賞の心得としてもよき指南書ではないかと思えたからである。仏像はもの言わぬ静態的な存在である。しかし、仏像と対峙して、そこからなにを学ぶかには、観る側の精神のありようが問われる。原始宗教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程は、実は仏像鑑賞の観る側の動態的な変化を促し、また、場合によれば「見せる側」の寺院の姿勢を問うているかも知れない。

(参考)唯識
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

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無著(アサンガ)

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