大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

カニシカ王

カニシカ王

『カニシカ王』(小説仏教シリーズ13) 木戸秀夫 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17503249.html

 この本を読んでいて考えたのは、文明の伝播とは何かということである。カニシカ王(Kanishka I、κανηϸκε κοϸανο (クシャーナ朝のカニシカ)、漢訳仏典では迦膩色迦などと表記)は2世紀中葉に大帝国を築いた名君といわれる。インドおよび周辺広域において、仏教を国教として隆盛させたのみならず、この段階で厖大なエネルギーをもって仏典、仏塔、仏像を整備して、結果としてそれが中国に伝えられたという歴史的に大きな功績もある。

 しかし、一方でインドにおいてはその後、仏教は廃れ他の宗教にとって代わられる。いまでもインドは、ヒンドゥー教やイスラム教が多く信仰され仏教信徒は1%に満たないようだ。しかし、インドから中国に伝播された仏教は、より深化されてその教義も磨かれる。さらに、そのエッセンスを必死に勉強したのが極東に位置する日本であり、多くの仏典、仏具、仏像が結果的にこの小さな島国に集積されることになる。

風土の違いは民族に決定的な違いをあたえるだろう。しかし人種、歴史、文化、宗教の違いにもかかわらず、ある文化的な産物は異国に舶載され、そこで変化しさらに別の国にと伝えられていく。不思議なことだが、人々に支持されない(感動を与えない)ものは、もちろん自国においても淘汰され、他国にもたらされてもそこで胚胎することはないだろう。しかし、良いもの(普遍性をそなえたもの)は、国境を越え、民族を超えて、あたかも自ら命をもち運動をするように伝えられていく。さらに、そうした伝播の過程において、多くの時間ととともに、進化され磨かれ洗練されて普遍性を増していく場合もあるだろう。仏像はその一典型ではないかと思う。

まず、カニシカ王の時代の首都、ペシャーワル(当時はプルシャプラと呼ばれた。現パキスタン、カイバル・パクトゥンクワ州の州都。ペルシャ語で「高地の砦(High Fort)」という意味といい、西に50km行けばカイバル峠があり、アフガニスタンとの国境にも近い)について見ておこう。

【以下は引用】
仏教全盛時代のペシャーワル

ペシャーワルが、ガンダーラ地方の中心部を構成するようになったのはクシャーナ朝・カニシカ王の時代である。少なくとも西暦127年に即位したカニシカ王は、ペシャーワルを仏教研究の中心へと発展させた。当時としては最大級の釈迦の遺骨を納めるストゥーパを建設する一方で、ペシャーワル旧市街には、Ganj Gateと呼ばれる門を建設した。

カニシカ王が建設したストゥーパは、アフガニスタンの山々からガンダーラ平原に降り立った人々を大いに驚嘆させる建築物であったと伝えられている。400年ごろ、中国から経典を求めてインドへ旅した僧法顕は、カニシカ王のストゥーパについて記録した。ストゥーパの高さは約120mであり、その美しさは類を見ないものであると記録した。玄奘がペシャーワルを訪問したのは、634年であるが、そのころにはペシャーワルの仏教寺院はかなり荒廃が進んでいたとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%AB

クシャーナ朝 地図

次に、クシャーナ朝について。ここで重要なのはカニシカ王が2世紀中葉に圧倒的な勢力をもって強国を築いたこと、しかし、それは後世長くは続かなかったこと。カニシカ王の在任期間中において、その版図において仏教信仰に注力したこと。それによって、本拠地、ガンダーラのほかマトゥラーでも多くの初期の多くの仏像がつくられたことである。それ以前にも仏教譚をレリーフや彫像化したものはあったが、「独立像」として仏像を振興した功績において、カニシカ王は仏典の整備とともに歴史に名をとどめることになる。

【以下は引用】
カニシカ王と後継者

ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現:ペシャーワル)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。

カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。

カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。

軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。

ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。

3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ(バゾデオス、ΒΑΖΟΔΗΟΣ、中:波調)が王位についた。彼の治世に、三国時代の魏に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。

ヴァースデーヴァはサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、バハラーム2世(276年 - 293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。

クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においては「クシャーン・シャー」(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、おそらくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。

クシャーナ朝の美術

カニシカ王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた)。プルシャプラを中心とするガンダーラで興ったため、ガンダーラ美術と呼ばれる。

この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは仏像の登場である。従来の仏教美術において仏陀の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は法輪や仏塔、仏足跡などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。

ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D

ガンダーラMIHO1

(参考)インドの仏像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-434.html

(参考画像)インド彫刻 ギャラリー
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-275.html

カニシカ王は巨大な権力をもって、仏教の振興に貢献した。仏典の整備はその一環である。しかし、仏教のみを唯一、絶対の神としたかどうかには異説もある。一挙に拡張した広大な領土において、その「統治原理」として仏教を強く用いたことはあったろうが、他方で各地によって異なる宗教もまた尊重したと考えても為政者の現実政治としては不思議はない。

【以下は引用】

仏典の伝説

カニシカ王が仏教を保護したことは多くの仏典に記録されている。仏典の伝説によれば、カシミール地方の王にシンハと言う人物がおり、仏教に帰依して出家し、スダルシャナと称してカシミールで法を説いていた。カニシカは彼の噂を聞いてその説法を聞きに行き、仏教に帰依するようになったという。カニシカ王は各地に仏塔を建造したことが知られているほか、彼の治世に仏典の第四回結集(第三回とも)が行われたとも伝えられている。

同じく仏典の記録によれば、カニシカ王は中部印度に遠征軍を派遣し、攻撃させた。同地の王は和平交渉を行い、カニシカ王は3億金を要求した。同地の王がこれを支払い不可能であると回答すると、カニシカ王は2億金を減額する代わりに、寶の「仏鉢」と、サーケータ出身の詩人アシュヴァゴーシャ(漢:馬鳴。弁才比丘)を送るように要求した。アシュヴァゴーシャは同地の王に、広く諸国に仏道を弘める道理を説き勧めた。中部印度の王は2つの寶をカニシカ王に与えることにした。こうしてカニシカ王の下に来たアシュヴァゴーシャは、カニシカ王の手厚い待遇を受け、大臣マータラ(漢:摩吒羅)、医師チャラカ(漢:遮羅迦)と並んで「三智人」とされ、カニシカ王の「親友」となり、カニシカ王の精神的な師となった。

宗派ー説一切有部

日本や中国の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが、実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい。アシュヴァゴーシャの残した作品などから、カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教、特に説一切有部であったといわれている。

他宗教とカニシカ王

実際にはカニシカ王は仏教だけではなく、他の宗教との関係も濃密であった。彼の発行したコインにはシヴァ神・太陽神・月神・スカンダ神・ヴィシャーカ神・火神・風神など伝統的な印度等の神の図像が表わされている。また、彼の支配した時代のタクシラにはおそらくゾロアスター教の拝火神殿と思われる建物も存在している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%AB1%E4%B8%96#.E4.BB.8F.E5.85.B8.E3.81.AE.E4.BC.9D.E8.AA.AC

馬鳴(めみょう、梵: Aśvaghoṣa , アシュヴァゴーシャ)について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%B3%B4

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