大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

「学際」的仏像研究私論

「学際」的仏像研究私論

はじめに―かんなみ仏の里美術館

地域開発の仕事をしていると思いがけない機会をいただくことがある。山口建・静岡県立静岡がんセンター総長のご紹介で森延彦・函南市長と知り合い、筆者は現在、かんなみ仏の里美術館運営審議会委員を拝命しているが、そのメンバーそのものが実に「学際」的である。

清水眞澄・三井記念美術館館長は日本美術史の泰斗であり、近著『仏像の顔―形と表情を読む』(岩波新書、2013年)を手にとられた方も多かろう。栗生明・千葉大学名誉教授は著名な建築家である。京都府宇治市の平等院宝物館鳳翔堂は国宝鳳凰堂と見事に調和した日本初のテンプルミュージアム(指定博物館、日本芸術院賞受賞)だが、当館に加えて、その設計を手がけられた先駆者である。
齋藤弘会長、富永和彦副会長はともに地元の教育関係者のトップを務められ、当館を教育施設、地域交流拠点として常に真剣に考えておられる。他にもビジネスや観光の専門家が審議会に集まり、毎回幅広い議論が展開されている。

桑原薬師堂2
木造薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財/平安時代/桑原薬師堂にて筆者撮影。現在はかんなみ仏の里美術館にて展示中)

さて、かんなみ仏の里美術館では、平安時代の逸品、薬師如来坐像のほか、鎌倉時代の運慶一門(慶派)の仏師實慶作の阿弥陀三尊像( 重要文化財) や十二神将などを常設展示している(http://www.kannami-museum.jp/)。
もともとこうした諸仏は永らく、鄙びた桑原薬師堂で地域の信仰の対象としてひっそりと息づいてきた。日本で古い木造の仏像が全国各地でかくも分厚い蓄積をもって保存されてきたこと自体が驚異的である。戦乱や風水害、堂宇の劣化による雨漏りや虫害などのさまざまな脅威にさらされながら、パトロンをもった大寺院ですら多くの艱難辛苦があったなか、市井で民衆によって大切に守り継がれてきた地方仏の存在そのものが、一種の社会的共通資本といってよい価値があると思う。

筆者は中学生の時に、慶派の流れをくむ鎌倉市二階堂覚園寺の薬師三尊坐像(重要文化財)によって仏像の魅力に目覚め、大学ではサークル活動として、古美術研究会に所属し、飛鳥彫刻を研究するチーフを経験させてもらった(「飛鳥彫刻への文化史的接近」、『毘首羯磨』早稲田大学古美術研究会編、1974年、所収)。以来、仏像は変わらぬ関心事項ながらも単なる一好事家にすぎない。そうした立場ながら、以下、ささやかな仏像研究私論を述べてみたい。

グローバリズムと仏像研究

かつて京都や奈良に遊ぶ観光客の座右の書といえば、和辻哲郎『古寺巡礼』(初版1919年)や亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(同1943年)であった。これらは仏像研究の専門家によって書かれたものではなく、哲学者や文芸評論家による仏像論であり、それゆえに多くの読者を獲得したかもしれない。
しかし、日本の仏像の価値をグローバリズムから位置づけた最初の試みは、岡倉天心の英文出版 The Ideals of the East with Special Reference of the Art of Japan (London: John Murray, 1903、富原芳彰訳『東洋の理想―特に日本美術について』ぺりかん社、1980年を参照)であろう。岡倉天心はフェノロサとともに1884年法隆寺夢殿救世観音像を世に出したことで有名だが、約20年後に書かれた本書は、インド・韃靼文明、中国文明を論じ、それらを背景とした仏教芸術(仏像もその一典型)を抽出しつつ、それらが「極東」の日本にあって「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫たらしめた」(p.29)と論じた。世界文明のなかで、仏像などの日本仏教美術の価値をはじめて明確に位置づけた書物といわれる所以である。

戦前の仏像研究

邦訳による天心全集が出版されたのは1922年、これ以降戦前の仏像研究には見るべきものも多い。例示として、書架にあるものを拾っただけでも、木村小舟『推古より天平へ』(1928年)、黒田鵬心『日本美術史講話』(1929年)、加藤泰『日本美術史話』(1937年)、濱田耕筰『日本美術史研究』(1940年)、井上政次『大和古寺』(1941年)、『法隆寺図説』(1942年)、望月信成『日本上代の彫刻』(1943年)、野間清六『日本彫刻の美』(1943年)、井島勉『日本美術図譜』(1944年)、足立康『日本彫刻史の研究』(1944年)などがある。また、戦後の出版となるが、田中豊蔵や上野直昭の研究はいかにも浩瀚であり、和辻や亀井だけでなく、職業的専門的な研究家がこの時期、多く輩出されていたことがわかる。

多くの研究の特色としては、仏像彫刻において和様(日本的な特色の抽出)という視点が重視されていることである。朝鮮、大陸からの仏典、仏像、仏画、仏具などの伝搬、舶載はあったが、それが日本において胚胎して、日本独自の仏教彫刻文化が花開いたといった見方である。その結果、今日から見ると歴史的バイアスを感じるが、渡来人や帰化人の影響の濃い飛鳥白鳳彫刻よりも天平以降の彫刻を高く評価し、残存作のすくない定朝(じょうちょう)こそが日本的な特質の表象となり、さらに慶派彫刻をもって日本のルネサンスに至るという「様式史」が形成されていく。

学際的研究の時代へ

昨年は戦後70年だったが、仏像研究においてこの間には大きな変貌があった。「様式史」重視の姿勢はいまもなお強いが、それにとどまらない三つの「学際」的な潮流が変化を促しているように思う。

(1)仏師(製作者)からのメッセージ

戦前にも本郷新『彫刻の美』(冨山房、1942年)といった彫刻家からの問題提起はあったが、京仏師の松久朋琳による『京佛師六十年』、『仏像彫刻のすすめ』(日貿出版社、1973年)や奈良仏師の太田古朴の仏像観賞シリーズ〈1~3〉(『飛鳥・奈良』、『平安藤原』、『鎌倉吉野』綜芸舎、1971~75年)、『日本の仏像 意味と観賞の仕方』(淡屋俊吉との共著、三学出版、1978年)は創作技法を知るうえでも興味深い。これに続き、西村公朝師は『仏像の再発見 鑑定への道』(吉川弘文館、1976年)、『仏の世界観 仏像造形の条件』(吉川弘文館、1979年)ほか多くの著作を残され、最近では彫刻家の藪内佐斗司・東京芸術大学大学院教授などが多彩な情報発信をしている。

仏師、仏像修理の専門家が仏像を論じる―それはまちがいなく「プロ」の眼である。彼らは、当初造像した仏師や、後世に修理しバトン・タッチしてきた先達の仕事を自ら追体験するのみならず、復旧作業を通じて各々の時代の証人ともなり、歴史の継承者でもある。こうした仏師たちは、かつては無言の技術者であった。しかし現代では、その知見、経験、思想を自ら積極的に語るようになってきている。

(2)科学的アプローチ

紫外線、赤外線、X線、β線、γ線などの光学的分析、顕微鏡、微量化学分析法などの科学的アプローチが仏像研究の方法論を一変してしまった(山﨑一雄『古文化財の科学』思文閣出版、1988年)。
信仰の対象である仏像に光学的分析を加えることには根強い抵抗があったようだが、戦前からの研究成果もあって、1950年代から本格化する(久野健『仏像』学生社、1961年)。いまやこうした手法は定番であり、目視によって様式の差を確認し推量するだけの「様式史」は過去のものとなってしまった。

筆者もかつて、兵庫県加古川市鶴林寺に白鳳仏の名品、金銅聖観音像を拝顔に行った際に、国宝太子堂(法華堂)の壁画がサイバーショットデジタルカメラによる赤外写真で現代に甦ったことを見てその威力に驚いた(『産経新聞』2007年10月29日、拙稿「感・彩・人コラム」 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1879505.html)。
また、仏像の修理技法の高度化にとっても微量化学分析法は不可欠であり、たとえば鋳金、鍛金、彫金などの金工全般で活用されている(『金工の伝統技法』理工学社、1986年)。

(3)経済学、経営学的な視点

杉山二郎『大仏以降』(学生社、1986年)では、東大寺大仏建立に伴う銅鋳造、水銀塗金法が深刻な重金属公害を発生させたのではないかとの推論を展開している。斬新な視点であり、大いに興味をそそられる。

東大寺参詣の際、大仏に至る導線上にある南大門の仁王像。誰しもが、足下から見上げ、その「巨大さ」に驚く。阿形像836cm、吽形像838cm、重量は各6.6t。阿形は、運慶+快慶、小仏師13名ほか、吽形は、定覚+湛慶、小仏師12名でつくられたことが、1998年から5年間の両像解体、修復工事で明らかとなったが、この2像はわずか約70日でつくられた。運慶工房の「生産性の高さ」については、これにとどまらない。現存しないが、東大寺大仏殿の脇侍は、観音菩薩(定覚+快慶)、虚空蔵菩薩(康慶+運慶)2体(座高で約900cm)、四天王4体(像高約1,300cm)は約80日間で完成、さらに、東大寺中門像高約700㎝の2天王については制作日数76日、東方天が快慶ほか小仏師14名、西方天が定覚ほか小仏師13名のチームであったという(副島弘道『運慶 その人と芸術』吉川弘文館、2000年、pp.136-137参照)。
こうした造像システムは早くも定朝によって確立されたとされ、1026年中宮威子御産祈祷のための27体の等身仏は、工期3カ月、仏師動員125名の記録がある。運慶工房は、その伝統を引き継いでいる(根立研介『運慶 天下復タ彫刻ナシ』ミネルヴァ書房、2009年、pp.8-9参照)。

筆者は、<チーム運慶>の活動に日本の製造業の源流を想像し、加工・組立技術の分業によるその生産性の高さに驚くが、近年のこうした研究成果はいかにも学際的である。

おわりに隣接学問との関係

飛鳥白鳳時代を考える時、考古学ではそれ以前の古墳時代から多くの実証的なデータが得られる(町田章『平城京』考古学ライブラリー44、ニュー・サイエンス社、1986年)。また、この時代の朝鮮、大陸との国際関係は緊密であり、歴史学における海外との比較研究からも新たな発見がある(速水侑『日本仏教史〈古代〉』吉川弘文館、1986年)。
戦前の仏像研究から続く「様式史」では、この時代のグローバルなダイナミズムが十分に捉えられていないと感じることがある一方、考古学や歴史学からの飛鳥白鳳時代の解析は魅力的である。

文化庁のデータ( http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/searchlist.asp)によれば、日本には現在、128件の国宝の仏像がある。しかし鎌倉時代を最後に、以降の国宝の指定はない。
「様式史」の呪縛といっては専門家からのご叱正があるかもしれないが、江戸時代の円空、木喰はじめ胸を打つ仏像は後世にも多く存在しており、この点はかねてからの強い疑問である。

学界のアウトサイダー、保田與重郎はかつて「美術やその歴史を語る上で、様式とか形式といふことを目安にする考へ方は、わが国では、文明開化以前にはなかった。かうした方法の始まりは、近々百年この方美学を芸術学としてつくる時に、凡庸で美のわからぬ分類家が考えへたものである」(『日本の美術史』新潮社、1968年、p.89、漢字のみ新字体に変更)と辛辣に批判した。
ところで、最近は、飛鳥、白鳳、天平、貞観といった従来の区分ではなく、よりスマートに、時代別に前期、後期で分類する傾向も強いが、筆者は旧表記のニュアンスを大切にしたいし、学界の分類学重視の傾向に保田のこの言葉を想起する。
むしろ、上記で指摘したような学際的な分野の成果を踏まえ、「様式史」を相対化し、より総合化した仏像研究が求められていると思う次第である。

http://www.isr.or.jp/TokeiKen/pdf/gakusai/1_14.pdf
(『学際』第1号(2016年1月)所収 http://www.isr.or.jp/TokeiKen/publication/gakusai/gakusai_new.html

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