大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像と国民性 秋篠寺の伎芸天

002B4ECB7DDC5B7.jpg

 さまざまな国で好まれる仏像には違いがありますね。同じ仏教国でも、仏像表現は実に多様です。また、それは歴史、時代とともに変化します。一種の流行もある。しかもその流行は、国内の好みだけを反映するわけではなく、外国の影響を色濃く受ける。ある時代の仏像の特色は、地域性も反映するけれど、一種の時代精神も表している。
  さらに、担い手に注目すれば、仏像は為政者にとっても、一般の民衆にも等しく開かれた存在であるべきものと考えられますが、時代によっては、為政者の「目的と手段」という観点から仏像をとらえることもできる。一方、民衆の側からみれば、政治とは関係なく、不条理な世界にあって救済のよすがに仏像を求める。

 いまののお話しは仏像だけに限りませんね。文明、文化、文物にかかわる多くのものが共通してもっている特質でもあると思うのです。しかし、後半の部分は仏像にしかできないことかも知れません。信仰の対象という点はとても大切です。

 秋篠寺の伎芸天を見てみましょう。この有名な仏さまには3つの特色があります。

1.相貌(頭部)は「天平時代」、身体は「鎌倉時代」という幾世紀をも超えた時代間の<合作>であること
2.頭部は脱活乾漆造、躯体は木造といった全く彫刻技法が異なっていること。こうした手法の異なる<合体>は珍しい事例
3.「伎芸天」という名称が、なかなか類例がなく、数少ないその代表的な名品であること

以上について、海外との関係も踏まえて、この仏さまの様式などの解説をお願いできますか?

 わかりました。以下は私見ですけれど。秋篠寺は775(宝亀6)年の建立(「秋篠寺真言院之縁起」)です。宝亀は天平、神護につづく時代で延暦のまえの年号です。彫刻史では天平末期ないし貞観初期にあたりますが、ここでは天平仏としましょう。
 まず、海外の仏像との比較で連想されるのが中国の敦煌莫高窟第45窟像であり、これは微笑と、ふくよかな体のラインが特徴的な脇侍菩薩の塑像です。この柔らかな表情としなやかな擬態の絶妙な<バランス>こそ、日中の両像に共通し、いまもわれわれをとらえる湛えた魅力でしょう。もともと、伎芸天はインドに淵源があり、シヴァ神が楽器の演奏をしているときに、その髪の生え際から生まれ落ちた天女といわれます。そこから「容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の守護善神とされる」ということになります。
 伎芸天像は(雅楽面は別として)日本ではとても珍しいのですが、これは諸「観音」信仰が広範に浸透し主流となることに加えて、女性を強く感じさせる彫刻群では「弁財天」が首座を占めたといった事情もあったということでしょうか。
 しかし伎芸天というゆかしい名の響きとともに、その希少価値性が、本像の注目集度を近時、いっそう高めているかも知れません。そして、本像には大振り、自立のイメージが強いゆえか、現代を生きる働く女性の根強いファンが多いことも特筆に価するでしょう。
 なお、伎芸天はギリシア神話のアテナ像との関係も指摘されています。女性神であり、技芸に優れた立像という共有項があると、これに限らず、どの国でも一定程度は似たイメージは形成されるのかも知れません。 
 さらに、ご尊顔をアップでみると柔らかな表情の口元をわずかにほころばせ、メロディを口ずさんでいるようにも見えます。そこから音声菩薩の一種ではないかといった類推解釈もでてくるのでしょう。

 一方、鎌倉時代に躯体をつくった仏師の力量に新たなる驚きを感じます。巧みの技法をもった一流の仕事師です。本像でも、なで肩で量感のある身体は、しなやかさ、豊かさを見事に表象しています。
 細かく特色をあげれば別の見方も当然あるでしょうが、今日からみた大勢の観察では、お顔は、天平期にあって威厳ある大「唐風」というよりも(あたかも当時の日本人のイメージを写したような一種の)和様を感じます。
 また、ご身体は、鎌倉時代にあって「宋風」の形式主義、煩瑣な技巧に走らず、毅然として自然な写実を考慮しているように見受けられます。両時代においても当時の流行に妥協せぬ異色の作風であり、特に、鎌倉の仏師は、そこをよくわきまえて実に見事な仕事をしたと思います。
 つまり、この独特の仏像では、天平時代の造像した仏師は、ご尊顔を儀軌に捉われない自由度(躯体は形式的につくっても、頭部のリアリティは別。たとえば興福寺阿修羅像を思い起こしてください!)をもって造像、これをよく検分し鎌倉時代に修復した仏師が心を込めて彫ったご身体は、当時の形式主義には陥らず、慶派に代表される写実の妙味を表現していると感じます。
 ここには、南都復興の棟梁、慶派の天平、その後の奈良時代期の仏像を徹底して研究した成果が生かされていると思います。
 写実的な装いにおいて、頭部と身体は時代こそ異なれ、同様なコンセプトを<共有>、<融合>していまいか、ここに本像の意図せざる隠された意匠を感じます。
 
  漠然と観察していると、ただ良いお顔だなあ、で終わってしまうのですが、やはり、この仏さまも「時代精神」といったものをはっきりと投影しているのですね。補足的に造像された時代をみておきましょう。ここでも1.秋篠寺の淵源、2.造像された時代、3.後補された時代について以下3点に要約すれば、

【秋篠寺の淵源】
1.秋篠寺の淵源はふるく、780年(宝亀11年)光仁天皇勅願の最後の官寺である。774年に本堂建立とされるが、この年には吉備真備が没し、空海が生まれた。この由緒正しき大寺院の開祖、善珠(ぜんじゅ)僧正は、その時代の代表的な名僧でかの法相六祖の一人である。資材もあり寺格も高い恵まれた条件で、当初この伎芸天は造像されたことだけは間違いないだろう。

【造像された時代】
2.この寺には霊験あらたかな薬師如来像が祭られたが、玄昉との血縁もあったといわれる善珠は、平城天皇が皇太子のときに、早良親王の怨霊を封じる加持祈祷をここで行なったといわれる。光仁天皇自身、いくどもクーデターの動きに悩まされていたようで、平城京から平安京への移行期のこの時代は政治的にも、宗教的にも実に不安定であった。最後の官寺、秋篠寺は、そして伎芸天はこうした時代に世にお目見えしたのである。 

【後補された時代】
3.1135年(保延元年)に秋篠寺は大火で講堂以外を失う。零落の道をたどるが、伎芸天の首から下の胴体の破損は、おそらくこの火災の影響などをうけたのだろう。伎芸天同様の後捕がおこなわれている伝梵天像には、1289年(正応2年)の墨書が首まわりにあるとのことで、伎芸天もほぼこの頃の修復か。前年には興福寺金剛二力士像が造像された時代であり鎌倉彫刻初期の写実的な技量を大いに反映しているとみてもよいだろう。

ところで、信仰の対象という重要な視点からみて、コメントはありますか?

  伎芸天については、「大自在天つまりシヴァ神が天界で諸伎楽を行なうとき、その髪ぎわから生まれたといい、左手に花を盛った皿を捧げ、その容姿は端正で、あらゆる芸に長じ、諸芸成就、福徳円満をつかさどる芸術、芸能の神である。日本でどれほど信仰されたかは明らかでないが、奈良の秋篠寺に伝わる奈良時代の伎芸天像は、日本の女神像の最高の美女といわれている」(佐和隆研『仏像 祈りの美』(1974年 平凡社カラー新書 P.142)という指摘があります。

 さらに、伎芸天の淵源を知りたければ、ヒンドュー教(「摩醯首羅天法要」など)までさかのぼることが必要です。たとえば古代、若い女性が学ぶべき64項目のリストがありましたが、それは歌、器楽、舞踏、絵画、部屋の飾り方、寝床のしつらえ方、花輪の作り方、化粧術、裁縫、謎々遊び、書物の朗読、文芸に関する教養などが列挙されています。いま風にいえば、ダンス、フラワーデザイン、ルーム&ベッドメイキングなどもふくまれている。伎芸天は、経典ではこれらすべてを具備している神様ですね(中村元編著『仏像散策』1982年 東京書籍を参照)。

 おそらく、以上見てきたようないきさつもあり、秋篠寺の僧や民衆が、この不明な梵天様を伎芸天と名づけたのではないか、と思います。そして、それを今日まで継承させてきたことには、日本の国民性をもしかしたら強く反映しているかも知れませんね。いまや日本だけでなく、海外からの来訪者の心をとらえているのですから、伎芸天の名前を冠したことはとても賞賛されるべきことであろうと思います。

別ブログ記事「秋篠寺 伎芸天 なぞの美人」http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2025275.html を参照

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/tb.php/474-14d54a73
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad