大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

西大寺展と聖徳太子像

聖徳太子立像 元興寺
奈良県指定文化財 余木造玉眼 南無仏太子像 (鎌倉時代)

三井記念美術館で「奈良 西大寺展」創建1250年記念―叡尊と一門の名宝を観る。
展示のキーコンセプトとは少し離れるが、興味深かったのは空海と聖徳太子についてである。西大寺が真言律宗の名刹であることから、空海について、「重文 弘法大師坐像 1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-1 63(展示リスト参照)」があることは当然として、元興寺聖徳太子関連の仏像なども展示されている。

「重文 聖徳太子立像(孝養像) 善春 1 軀 鎌倉時代・文永5 年(1268) 元興寺:4-23 55」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち眼清願文 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-1 55-1」
「重文 聖徳太子立像(孝養像) 像内納入品のうち木仏所画所等列名 1 紙 鎌倉時代 元興寺:4-23-2 55-2」
「聖徳太子立像(南無仏太子像)  1 軀 鎌倉時代 元興寺:7-2 54」

聖徳太子伝説から、こうした作像がなされたことは当時にあっても根強い太子信仰があったことを示している。元興寺「聖徳太子立像(孝養像)」については、「聖徳太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈る姿を表しています。叡尊は聖徳太子を救世観音あるいは如意輪観音の化身として篤く信仰していました。この像は文永5年(1268)5千名近い人々が結縁して、仏師善春らにより造立されました。結縁者の中には叡尊の弟子も多く、叡尊による太子信仰の広まりを物語っています」(展示解説)とある。
また、「聖徳太子立像(南無仏太子像)」については、太子2歳のときに、東を向いて「南無仏」と唱えたシーンを造像したものである。これも定例パターンながら、聖徳太子の成長とともに、こうした造像がなされてきたこと自体が意味深い。

直感だが、日本では珍しい、一種の教育的教材としての太子像という見方もありえるかも知れない。当初は限られた貴族や僧侶の母親や子供向けであったかも知れないが、その後、広く市井の一般人も含め、子供の健康を願い、そして孝養をつくし世のためになる大人への成長への期待をこめて、子供たちを像を前に誘い、太子の人となり、その業績を語るーそんな連想をはせてみた。

【以下は引用】
元興寺の聖徳太子信仰

 聖徳太子(厩戸王)は、用明天皇と穴穂部間人皇女の子である歴史的実在の人物である。が、死後間もないころから、その偉人的な性格が誇張され、太子に対する尊崇の念が高まり、追慕の念が信仰へと昇華されたものである。『上宮聖徳法王帝説』や『日本書紀』を初め、『聖徳太子伝暦』、『日本往生極楽記』や『大日本国法華験記』に見られるように、太子は日本における最初の仏教者、祖師であると意識され、佛のように礼拝される対象となっていったのである。
 すなわち、「太子伝」という物語の普及、「太子絵伝」という仏教美術の展開、「太子像」という一種の仏像であり、祖師像を生んだのである。
 また、各寺院や宗門は聖武天皇、伝教大師最澄、弘法大師空海、理源大師聖宝の太子後身説、太子が観音の化身であり、我が国最初の往生人とし、あるいは、達磨の化身、阿弥陀の化身、法華経弘通の祖師とみて、太子を立宗の根本に位置付け、競って自宗派との関係をうたい、由緒寺院は創建の基を太子として権威化を図っているのである。
 元興寺は太子建立四十六ケ寺のひとつとされ、官大寺に列せられる事になるが、その由緒として、推古天皇勅願・聖徳太子建立を唱えたり、蘇我馬子と聖徳太子の関係深さを主張する。つまり、飛鳥寺・法興寺と斑鳩寺・法隆寺とは用明天皇と推古天皇により、蘇我馬子と聖徳太子に指名された「仏法興隆」の拠点たる『法興』と『法隆』の二寺なのであった。
 平城遷都に伴って「仏法元興之場 聖教最初之地」を主張するのもこの事が認められてきたからであった。源平の合戦を経て、鎌倉時代に南都復興が大々的に行われるが、その中で元興寺も復興勧進がすすめられた。
 その中心的な活動が極楽坊の独立であり、聖徳太子信仰の宣揚だったのであろう。すなわち、「重文・聖徳太子立像(孝養像)」、「県指定・聖徳太子立像(南無佛太子)」の造立であり、太子堂(明治期に消滅)の建立である。
 孝養像は、その像内納入品から、文永5年(1268)卯月八日(4月8日つまり釈迦生誕の花まつり)から一升ずつ千杯供養の勧進をすすめ、約五千人の結縁で、仏師善春が造立している。恐らく、太子生誕700年(1275)に向けての活動だったのであろう。
 また、南無佛太子像は、像内が明らかでないが、他寺院の銘文がある作などから考え、生誕750年(1325)が想定できよう。
 太子堂は、応永年間と伝えられているが、応永33年(1425)が生誕850年で、800年遠忌に重なっており、それに向けての動きであろう。その後、南都の太子堂とは、元興寺極楽坊のことを言うようになるのだ。
 現在、「太子堂」や「太子伝」などを失ってはいるが、優秀な「孝養像」や「南無佛太子」の存在が聖徳太子信仰の高まりを物語っている。
 因みに、孝養像とは、16歳像とも呼ばれる美豆良に結って官服に袈裟、横被を付け、柄香炉を持つ姿で、用明天皇(父君)の病気平癒を祈る姿なのか、それとも葬送の姿であろうか。明確ではないが、僧俗一体の姿ではある。
 一方、南無佛太子像は2歳像ともいわれ、幼児姿で、腰袴だけ付け、合掌するもので、2月15日の出来事を表していると言う。つまり、この姿は釈迦誕生佛からの発想であり、始めと終わり、「南無佛」、すなわち釈尊入滅の涅槃会を意識しているのだろう。
http://www.gangoji.or.jp/tera/jap/midokoro/midokoro1.htm#shoutokutaishi

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