大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

西大寺 小考3 叡尊上人

西大寺 叡尊
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。建仁元年(1201)大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土町)で興福寺学侶慶玄の子として誕生。

同時代の僧としては日蓮(1222-82年)がいる。 日蓮は叡尊よりも20歳以上年下だが、叡尊は長寿であり、日蓮よりも8年長生きしている。日蓮については以下を参照。

(参考)
日蓮論1 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073050.html
日蓮論2 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073080.html 
日蓮論3 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073156.html
日蓮論4 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073231.html
日蓮論5 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073419.html
日蓮論6 http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/2073518.html

叡尊は、7歳で母と死別し、11歳で醍醐寺叡賢阿闍梨の室に入り17歳で出家。主に密教を学ぶ。つまり、真言宗において、その創始者、空海に回帰しようとした。

➡ 建保5年(1217年)醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。
➡ 元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。

弘法大師遺戒の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや。すべからく顕密二戒を堅固に受持し清浄にして犯すことなかれ」の文言に触発され、密教修行を行う。菩提(悟り)に到達するためには、その前提として釈尊が定めた戒律をしっかりと遵守することが肝要であると確信し、34歳のときに生涯の活動の中心となる戒律復興の志を立てる。ここでは、大日如来に帰依するのではなく、釈迦如来に重点をおく。
翌文暦2年(1235)叡尊は荒廃只中の西大寺に入住し、更に翌年、同志四人で東大寺で「自誓受戒」を果たし菩薩比丘となる。叡尊の「自誓受戒」には原始、小乗的な自己陶冶の厳しさがあったかも知れない。

一時海龍王寺に移住するが、嘉禎4年(1238)再び西大寺に帰住し、荒廃した西大寺の再建に全力を注ぎ、密教と戒律を日月のごとく兼修する「真言律」の根本道場という西大寺を復興する一方、ここを拠点に「興法利生」をスローガンとする活発な宗教活動を推進する。

➡ 嘉禎元年(1235年)戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。
➡ 嘉禎2年(1236年)覚盛、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。
➡ 暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。
➡ 仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性の文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。
➡ 仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。
➡ 寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。
➡ 寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。
➡ 寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 寛元4年(1246年)道明寺で授戒をおこなう。
➡ 寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。
➡ 建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。
➡ 建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。
➡ 建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。 『聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。
➡ 建長7年(1255年)円仁が唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。
➡ 正嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。
➡ 文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。
➡ 弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。
➡ 弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。
➡ 文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。
➡ 文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる
➡ 文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。 異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。
➡ 文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 文永10年(1273年)蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。
➡ 文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。
➡ 文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。
➡ 建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。
➡ 弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
➡ 弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)
➡ 弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。
➡ 弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。
➡ 弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当に就任する。
➡ 弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。
➡ 正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。
➡ 正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。

以上の年譜記載の活動は概ね以下の5点に集約されると思う。

1.戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律の復興活動のこと
2.社会的に疎外された貧困階層の人々を中心に救済の手を差しのべた救貧活動のこと
3.元寇への祈祷などをつうじて、鎌倉幕府、朝廷と接触し、上記2つの活動を認知せしめたこと
4.聖徳太子、空海について、教義の研鑽を深め、その普及をおこなったこと(アンダーラインで記載)
5.多くの仏像、仏画、石塔婆などを勧請し、後世に残したこと(赤字で記載)

【以下は、西大寺HPから引用)
その根本理念である「興法利生」とは、「興隆仏法(仏教を盛んにすること)」「利益衆生(民衆を救済すること)」の略語で、それぞれ叡尊上人の具体的活動である戒律復興と貧困階層の救済に結実している。但し、叡尊にとって興法と利生は別々のものではなく、まさしく「興法利生」という一体の言葉で捉えたように、戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題でもあった。この点にこそ叡尊の仏教者たる真の面目があると考えられる。  

叡尊一代の行蹟を記した『西大勅謚興正菩薩行実年譜』によれば、その生涯に菩薩戒を授けた道俗総数97710人、講席を啓くこと10721座、行法を修すること41208座、殺生禁断とした場所1356所、寺院新建100余所、修造590余所、西大寺に寄附した末寺1500余寺とあり、その活躍はまことに驚異的なものであった。

正応3年(1290)90歳の高齢に達した叡尊上人は、8月25日、自ら禅定に入るが如く遷化した。正安2年(1300)7月、亀山法皇は叡尊上人の高徳を偲んで院宣を下し、五朝の国師として四輩は菩薩と仰いだとその教化を讃美し、興正菩薩の貴号を贈った。また後伏見天皇も同年閏7月3日に、「勅す、伝灯大法師位叡尊は、一天四海の大導師にして、濁世末代の生身仏なり」として重ねて興正菩薩の号を賜わったのであった。
http://saidaiji.or.jp/history/p2.html

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