大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と運慶 3

六波羅密寺 「弘法大師坐像」
木造弘法大師坐像 鎌倉時代 長快

7.六波羅密寺

六波羅密寺というのは、名前のとおり、狷介なる寺である。はじめて、そこを訪問したのは、はるかに昔のことだが、空也上人像を拝顔して、そのお姿のスーパーリアリズムと内から発せられた念仏表現のスーパーシンポリズムの表現ぶりに感激した。そのあとの混乱にみちた驚愕は、ここに、弘法大師がおあし、平清盛も、運慶も、湛慶も「同居」している不可思議さについてである。

川崎龍性「六波羅密寺の歴史と信仰」(『杉本苑子・川崎龍性 『六波羅密寺』 古寺巡礼京都25 1978年 淡交社)を読むと、この寺の数奇な来し方は複雑で、歴史に翻弄されつつも、したたかであり、宗派も天台宗から真言宗にかわるなどの変転がある。

さはあれど、いまここにおあす多くの、優れた仏像は、有名な地蔵菩薩像をふくめ慶派の影響が大きい。

【以下は引用(一部編集)】

六波羅密寺

京都市東山区にある真言宗智山派の寺。空也の創設といわれる。天台宗に属していたが,のち真言宗となった。空也上人立像をはじめ重要な美術品が収められている。 山号は、普陀落山。西国三十三所第17番札所。

寺域は京都の葬送地鳥辺野の入口で〈六道(ろくどう)の辻〉と呼ばれた地点にあり,古来葬送と死者追善の寺として庶民の信仰を集めてきた。963年(応和3)悪疫が流行した際、空也が建立した。当初は西光寺と称し,十一面観音像と脇士の二王・四王像を造立安置したという。977年(貞元2)中信が堂舎を修造し,寺号を六波羅蜜寺と改めて天台別院とし,法華八講や念仏を修して貴賤の信仰を集め,迎講(むかえこう)や地蔵講を行い,以後京都の諸人が講を行う寺として親しまれた。 平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。貞治年間(1362~1368)に再興され、真言宗に改宗。

この地は、源平時代には平家の一族の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれていた。このため幾度か兵火にあい、応仁の乱(1467~77)にも焼失したが、豊臣氏、徳川氏の帰依(きえ)によって復興した。現に本堂は室町初期の建造物で、本尊十一面観音立像(秘仏。12年ごとの辰年に開扉)、脇侍の地蔵菩薩像、四天王像(以上、平安後期)、空也上人像(鎌倉時代)など(以上、国重要文化財)を安置している。このうち地蔵菩薩は「山送りの地蔵」「鬘掛(かずらかけ)の地蔵」として知られ、空也上人の立像は念仏を象徴した小さな阿弥陀仏像六体が口から出る形式のものとして有名である。そのほか、運慶・湛慶の自作と称する肖像彫刻や、平清盛の像と伝えられる僧形坐像、弘法大師坐像、吉祥天立像、閻魔王坐像(以上、国重要文化財)などがある。12月13~31日には空也踊躍(ゆうやく)念仏が行われる。

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA-152681

◆仏像解説

<国宝>
・木造十一面観音立像平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり、951年に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年、国宝に指定された。

<重要文化財>
・本堂木造空也上人立像鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。

・木造僧形坐像(伝・平清盛像)鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。木造地蔵菩薩坐像鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。

・木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。

・木造四天王立像平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。宝物収蔵庫には4体のうちの持国天像と増長天像が安置され、残りの広目天像と多聞天像は京都国立博物館に寄託されている。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。木造薬師如来坐像平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。

・木造地蔵菩薩立像平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。

・木造弘法大師坐像鎌倉時代。快慶の弟子長快 (仏師)の作

・木造閻魔王坐像鎌倉時代木造吉祥天立像鎌倉時代
その他、重要有形民俗文化財として、泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具二千百余点などがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%AF%BA

龍樹について
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-453.html

研究論文 - 神戸大学人文学研究科 三宅久雄氏の論文
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/10-1.pdf

8.長快

弘法大師坐像の製作者は快慶の後継者たる長快である。先にみたとおり、弘法大師坐像のベンチマークは、運慶の第4子、康勝の手になる東寺像だが、快慶一門でもこうした優れた作例を残しているのである。両像の作風は異なり、剛毅な康勝、柔和な長快といった要約をすると、いかにも運慶と快慶のステロタイプ化した相違を安易に連想しがちだが、小生は、むしろ施主の要望の反映の要素が強いという考え方をとる。

【以下は引用】

長快(ちょうかい、生没年未詳)は、 鎌倉時代の慶派仏師。

<略歴>

阿弥号は定阿弥陀仏。快慶の弟子だが、湛慶も補佐し法橋位を得たという。1256年(建長8年)、湛慶に従い奈良東大寺講堂で文殊菩薩像を制作したが現存しない。(この時、兄弟子の栄快が地蔵菩薩像を制作した。)蓮華王院本堂の千体千手観音のうち28体に1256年(建長8年)に長快が実験した旨を示す銘があり、もう1体には長快自身が結縁した銘がある。また、蓮華王院から移されたとみられる朝光寺の像にも「実検了/長快」の銘がある。

<現存作品>

・「弘法大師像」 六波羅蜜寺蔵 制作時期不明
・「木造十一面観音立像」 パラミタミュージアム蔵 1256年(建長8年)以前の作。右足柄の外側に「巧匠定阿弥陀佛長快」銘。師・快慶作の長谷寺の本尊・十一面観音像(現存せず)を8分の1のサイズで忠実に模刻したもので、長谷観音の余材で作られた。もとは、興福寺禅定院観音堂本像であった可能性が高い。

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