大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と運慶  運慶は空海を彫ったか?

運慶展
大日如来坐像 運慶作 国宝 ※
空海は日本仏教界のスーパースターである。空海以降の仏教者は、すべて何らかの影響を空海から受けていると言っても過言ではないだろう。仏師運慶も例外ではない。ここまではいかにも平凡なる指摘であろう。

しかし、運慶のデビュー作と目されている円成寺大日如来坐像のその素晴らしいご尊顔は、運慶のイメージする空海を彫ったものである、と言えばその点については、異論、反論以前に「いい加減なことを言うな」との大方のお叱りをうけそうではある。

以下、推理小説仕立てで5つの「状況証拠」をあげよう。真夏の夜の夢と思っていただきたい。

1.発注者は誰であったか

円成寺大日如来坐像は、安元2年(1176年)に完成した。施主(発注者)は誰か。寛遍上人かその後継者(定遍か)である。彼は、真言宗の名僧であり、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任し応保元年(1161年)大僧正に至った。仁平3年(1153年)忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を自ら興した。円成寺の要請をうけて、康慶および運慶は真言宗の最高神、大日如来を彫るが、真言宗の一派の新たな立ち上げにあたって、そのご尊顔には「開祖」空海をイメージしたと考える。

2.運慶と真言宗との深い関係

円成寺大日如来坐像は、東寺金剛菩薩坐像(839年)と似ている。同様に、運慶最後の現存作、称名寺光明院大威徳明王像(1216年)は東寺大威徳明王騎牛像(839年)と実によく似ている。ここからは、運慶はじめ慶派が、東寺、高野山など先行する真言密教系尊像を研究しわがものとしていることがわかる。
後に、運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行うが、その東寺については言わずとしれた空海の創建である。

◆【特別展】運慶 中世密教と鎌倉幕府 神奈川県立金沢文庫80年
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-212.html


3.大日如来は慶派カタログの主力

施主(クライアント)の意向の尊重は仏師にとって最重要事項の一つ。施主には事前に仏画や儀軌を見てもらい周到な打ち合わせが肝要。大日如来は慶派カタログの主力であった。たとえば快慶の石山寺多宝塔本尊大日如来像(1194年)は快慶初期の作で、円成寺大日如来像との比較は誰しもが関心のあるところであろう。制作年代では約20年の隔たりがあるが、両者の同質性(とくに全体構成、手印、腰部衣文などの胴体表現)と異質性(とくにご尊顔の表現、もちろん宝冠、光背の有無などは前提としたうえで)は明らかであろう。ちなみに石山寺も真言宗の名刹である。

◆近江路の神と仏1  三井記念美術館 快慶 石山寺多宝塔本尊大日如来坐像
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-338.html


4.弘法大師座像は慶派工房の大ヒット作

運慶の時代には弘法大師座像はそのカタログになかった。ゆえに、運慶は大日如来のご尊顔に空海をイメージしたが、快慶は別。一方、次世代の弟子は、弘法大師そのものを彫って大成功した。運慶の四男、康勝は、日本の肖像彫刻として屈指の作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)で有名だが、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師像を天福元年(1233年)に世に送る。これが大師堂信仰とともに庶民にうけて、傾いた東寺を立て直す最強アイテムとなったと言われる。そのご尊顔は厳ついもので、円成寺大日如来像とは似ても似つかない。ゆえに、円成寺像にイメージとしての空海が投影されているなどという発想はおそらくは誰も持たなかったと思う。しかし、慶派の持ち味は豊富なヴァリエーションにある。同時代、快慶の弟子長快作の六波羅密寺弘法大師坐像は優しいお顔立ちで、円成寺像に通じるものがある。

5.納入品にみる空海の影響

運慶は自身の名を作品の中に残した仏師である。浄楽寺諸像(1189年)や興福寺北円堂弥勒如来像(1212年)には、有名な月輪の納入があり、これをもって運慶の真作と特定されるところだが、その月輪の思想的背景は、空海の「無量壽次第」に根拠が求められるとの説がある(伊藤史郎「高野山不動堂の八大童子像と運慶」参照)。これは、空海の思想や仕儀を運慶が熟知していた一つの証左ではないかと思う。

いまだ父康慶の弟子と墨書した若き運慶の円成寺大日如来像には、気品をたたえた表情とともに秘められた意志力が内から漲り、観る者に強い印象をあたえる。その解析不能な神々しさに、筆者は青年期の空海のイメージを重ねてみた。着想したはじめは、空海と運慶は朧な二重写しであったが、以上の5つの「状況証拠」を考えてきて、徐々に二人の若者の画像がくっきりとしていくような気がした。

その前提は、冒頭に記した寛遍(1100年(康和2年)~ 1166年(永万2年))およびその後継がいかに康慶および運慶に影響を与えたかにあろう。また、同時にあるいはやや時代は下って、文覚(1139年(保延5年)~1203年(建仁))の影響も気になるところである。若き運慶は、父から一任され、そのご尊顔の造型に乾坤一擲の気持ちで臨んだのではないか。そして意識的に若き空海の悟りの姿をここに彫ったのではないかと愚考した次第である。


【以下は引用】
※ 大日如来坐像 運慶作 国宝 像高98.8 平安時代末期
台座内墨書から鎌倉新様式を切り開いた、運慶の最初期の作と知れる記念碑的仏像。若々しい面相と体躯には、新時代の気風と青年運慶の想念が伝わってくるようです。 大日如来は密教における根本仏。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」の意味をもち、如来でありながら、宝冠、瓔珞、臂釧、腕釧を身に着け、一種の王者の姿をとっています。 運慶の生年は不明ですが、造像は20歳代と推定されています。
< 銘文>
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)
http://www.enjyouji.jp/treasure/p1.html

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下記の「空海と運慶 1~3」を参照

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