大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

源頼朝と運慶 1

運慶展 (3)
神奈川・浄楽寺 不動明王(重要文化財)、文治5年[1189年]

1.文覚再考

この人は波乱万丈の人生を歩んだ。以下は諸情報を組み合わせて書いた。関連する物語(フィクション)も多いことから、どこまでが実像かがわからないところもあるが、源頼朝と運慶を結ぶキーパースンであることだけは確かである。

一般には生没年不詳だが、1139年(保延5年)~1203年(建仁3年)という説もある。これによれば65歳で没したことになる。
 
平安時代末期~鎌倉時代初頭の真言宗僧侶。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子で遠藤盛遠(もりとお)と称し、もと北面の武士。初め鳥羽天皇の皇女上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(わたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行したという。文覚は空海を崇敬し、1168年(仁安3年)その旧跡である神護寺に住み、修復に努めた。73年(承安3年)後白河法皇の御所法住寺殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園の寄進を強請して伊豆に流され、そこで配流中の源頼朝に会い一時寝食を共にした。
78年(治承2年)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌年、平清盛が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、80年には平氏追討を命ずる法皇の院宣を仲介して、頼朝に挙兵を促した。83年(寿永2年)法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受けた。

鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺はじめ東寺の復興など、幕府、法皇の援助で空海ゆかりの諸寺を復興した。90年(建久1年)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。

一時大いに権勢をふるったが、92年に法皇が没し、99年(正治1年)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2年)許されて帰京したが、後鳥羽上皇の怒りを買い、翌年、さらに対馬に流され、やがて失意のうちに没したという。

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(メモ)文覚と運慶

◆文覚が、1173年(承安3年)から78年(治承2年)までの伊豆配流中、1177年 康慶は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像を作っている。 文覚は関東で康慶に会っていた可能性がある。

◆文覚は83年(寿永2年)に法皇から紀伊国田荘(かせだのしょう)を寄進され経済的に安定する。この年、運慶願経作成。運慶も本格的に活動を開始する。

◆文覚は90年(建久1年)には神護寺の堂宇をほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。さらに空海の古跡である東寺の復興をも図り、89年(文治5年)播磨国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、97年には諸堂の修造を終えた。
この間、運慶は1196 年に神護寺中門二天、夜叉像を作り(神護寺略記より)、翌年は金剛峰寺八大童子を作り(高野春秋)、さらに東寺講堂諸像を修理した(東宝記)。文覚の意向を受けての運慶の活動であった。

文覚は98年、明恵に運慶作釈迦如来像を与えた(明恵上人伝記)。

◆文覚は1202年(建仁2年)は配流先の佐渡から許されて帰京したが、運慶は翌年、神護寺講堂諸像を作っている(神護寺略記)。

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