大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

源頼朝と運慶 2

運慶展 (8)
願成就院 毘沙門天像 

2.北条時政 1138年 (保延4年)~1215 (建保3年)

激動の時代を生きた武将であり、常に権力の中心にあることを目指し、鞍替え、謀略など目まぐるしく変転する政治状況のなかにあった。武断的な逸話が多いなかで、歴史的トレースのなかで運慶が登場するのも面白い。以下は諸情報の引用を組み合わせて書いた。

鎌倉幕府の初代執権 (在職 1203~05年) 。通称は四郎。法名は明盛。伊豆国の在庁官人北条時方と伊豆掾伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。伊豆国北条 (現在の静岡県田方郡) の出身。娘政子は源頼朝の妻。
1180 (治承4) 年8月頼朝挙兵の最初から頼朝に従って功をあげた。挙兵後、頼朝は鎌倉を目指すが、ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが、次子義時とともに海路安房国に逃れてやがて甲斐源氏を誘い、富士川の戦で頼朝軍と合体する。その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなした。

85 (文治1) 年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治は刷新された。 だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく、一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ、京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。

その後の動きははっきりしないが、伊豆、駿河の守護として活動し文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し、奥州合戦に従う。やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ、1192 (建久3)年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行った。1199 (正治1)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。

1200 (正治2) 年4月従五位下。1203 (建仁3)年政所別当、執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで、頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ、これを自邸に誘って謀殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。しかし子の義時や政子と路線が合わず、後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗、伊豆に引退させられその地で亡くなる。

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF-132162

(以下は一部重複するがWikipediaからの引用)

文治元年(1185年)11月、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、朝廷に対して「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。
時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し、その月の終わりに甥の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。後任の京都守護には一条能保が就任した。時政の在任期間は4ヶ月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。
鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

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願成就院 毘沙門天像は実によきお姿である。それ以前の毘沙門天像(多聞天像)と共通する部分もあるが、力感と生き生きとした顔の表情は抜群である。さて、このお顔に安易に北条時政を重ねることはできないだろうが、施主たる北条時政がおそらくこの像を気にいったことは想像にかたくないだろう。運慶にとって、願成就院は鎌倉幕府の中枢と堅固な関係をもつうえで重要なステップとなった。

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