大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥・白鳳彫刻の魅力(13)

広隆寺弥勒菩薩timages


 今日は飛鳥彫刻への東アジアからの影響について、教えてほしいと思いますが・・。

 そりゃ、あれだろ、朝鮮半島からの影響が強かったという話しだね。

 朝鮮半島といっても、いくつかの系譜があるのです。
<1>朝鮮半島南部、<2>北部から中国東北部についても違いがあります。
 まず<1>ですが、さらに、歴史的には加耶(任那)、新羅、百済にわかれます。562年に任那が滅びて新羅になり、さらに660年に百済も新羅に統一されますが、百済系と新羅系によってももちろん異なりますし、
<2>の高句麗もかっては楽浪郡、扶余にわかれていました。313年に楽浪郡が滅び、494年に扶余も高句麗に統合され、この高句麗時代が668年までつづきます。ですから、飛鳥時代には、新羅、百済、高句麗の三国が鼎立していたことになります。
 加えて、中国も隋(581-618年)以前には国が多くに分立されています。たとえば北魏(386-535年)なども特色がありますが、その後、東魏→北斉、西魏→北周にかわって隋に統一されていきます。

 ややこしいねえ。そうさなあ、弥勒菩薩さんはどこから来たんだっけ?

 たとえば、広隆寺の宝冠弥勒は聖徳太子が没した翌年、622(推古30)年に新羅の真平王(しんぺいおう)が太子追善に送ってきた仏像という説があるようですね。

 さきほど申し上げたように660年までは百済がありました。広隆寺の宝冠弥勒にとてもよく似ている韓国ソウル国立中央博物館の金銅弥勒像は、そのふくよかで柔らかい作風から百済系ともいわれます。また、韓国国宝第78号弥勒菩薩なども、宝冠や服装は異なりますが、全体のお姿は宝冠弥勒によく似ておられます。

 任那の日本の「出城」がなくなったときに、引き揚げ者のなかには多くの朝鮮の人がいたろうね。同様に、百済がほろび、そのほかにも滅びた国があったわけだから、そうした人びとのうち海を渡って日本に来た帰化人は結構いたんじゃないかな。

 当時の帰化人といえば、職種にもよるでしょうが相当な知識人、テクノクラートもいたでしょうね。新羅や高句麗は中国文明などの受容を陸続きで日々にうけて、日本よりもはるかに先進国であったわけですから。また、飛鳥時代以上に、白鳳時代は統一新羅の影響が強かったでしょうね。

 また、聖徳太子の時代、多くの国からの舶載品はあったでしょうが、太子が隋と直接に交流し、そこから多くの新文物がはいってきたことも、とても大きなことですね。朝鮮半島経由のほかに中国からのいわば「直入」のルートは、その後、白鳳~天平にかけての日本文化の胚胎に決定的な影響をあたえたという研究は多いです。

 帰化人の多くが、お国か日本に来てからかは知らんが、いま見ている大事な仏様を当時、つくってくれたとすりゃあだ、別に、どこでつくったかはどうでもいいような気もしてきたな。

 専門の研究者はなかなか、さんのように単純にはいかないでしょうが、仏像に限らず、あらゆる文物が海をわたってもたらされたことを、よく考えると、聖徳太子が瀬戸内海の「海上の道」を、要所要所でピシリと押さえていたことは政治的、経済的、文化的にも興味深いですね・・。


広隆寺弥勒菩薩
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テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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