大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

聖徳太子について(7)

桜2


 いつもの年にくらべて今年は桜の開花がはやい。家の端っこに植えた細い桜の苗木が3年目にして少しは太くなり、今年はじめて小さな花をほころばせた。ご近所の桜はかわらず見事に満開だが、家の花は数えられる程度に咲いているにすぎず、いまだ蕾も成長途上にあるように見受けられる。遅咲き桜というのがはじめて実感できる気がする。それでも生命の息吹を窓近くで感じることができて嬉しい。

 飛鳥・白鳳彫刻の虜となり、休みはふと思うと奈良や東京の法隆寺宝物館などに佇んでいる。平日も就寝まえには少しく関連の書物に親しむ日々である。このブログにも折節書いてきたが、その彫刻には汲めども尽きぬ<深さ>があって、また、さまざまな領域の研究者の日進月歩の蓄積は実に厖大であることをあらためて知る。その一方、解明できない事供も多く、この分野は謎と空想に満ちた世界であることも魅力の源泉なのだとも思う。

 多くの識者が倦むことなく文章をものにし、そうした真摯な営為に眼がひらかれる思いがする一方で、知るほどに飛鳥、白鳳の「時代そのもの」への関心が否応なく喚起され、それは自ずと聖徳太子や蘇我一族への興味へと転化されていく。聖徳太子とは何者であったのか。

 蘇我馬子、厩戸(聖徳太子)、鞍作(止利)といった名称から共通に導かれる<馬>は、騎馬兵のイメージにいきつく。斑鳩から大和(明日香)まで約20キロの行程、馬を疾駆する若き、そして壮年の太子の姿は想像にかたくない。斑鳩近郊には馬場もあったようだ。そこでは平時にあっても騎兵の教練が行われていたかも知れない。
 また、外交の<海の道>は、豊かな瀬戸内海の食糧資源確保のための<海上補給路>でもある。太子がいまの松山を天寿国に見立てたのは、ユートピア論からばかりとは思えない。網干や加古川の太子ゆかりの海洋都市は当時にあって有力なロジスティックスの拠点でもあったろう。そう考えると任那への救援を名目とした瀬戸内への身内の出兵は一種の軍事訓練の色彩もあったかも・・・。

 その一方、蘇我氏の所領も大変な大きさをもっていた。黛弘道『古代史を彩る女人像』(講談社学術文庫 1985年)を読んでいると、実は、聖徳太子(上宮家)の拠点はおおむね「点と線」でむすばれていたにすぎず、蘇我一族は河内、大和ともに「面的」に広大な領地を掌握していたことがわかる。しかも、そうした領地はいずれも物部討伐によって、旧物部氏所有地を塗り替えたところも多く、蘇我家、上宮家とも、そこに住まう住民を含めて割譲、統治したとも言えそうである。そこにはしたたかな政治的な行動原理も貫徹されていた。

 「三宝」とは政治的資源でもあり、また最先端の人文・科学知識の集積でもあったろう。僧は還俗すれば優秀なテクノクラートであったし、寺は危急の際は軍事的砦にもなりえた。そうした観点からは、仏像は、ひとびとに威厳を示し安寧をあたえるシンボルでもありえたし、もっと機能主義的に考えれば、文字通り軍事的「守護神」とも考えられる。もちろん、現存する仏像がすべてそうしたことを念頭に造像されたわけではない。小金銅仏などは持念仏や鎮魂的な意味からつくられた仏様も多かったろう。しかし丈六の巨大な仏像などはもっと多義的な意味をもっていたと考えるほうがよいかも知れない。

 きょうは美しい桜をめでながら、そんなことを漠然と考えていた一日であった。

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