大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

飛鳥・白鳳彫刻の魅力(14) 法隆寺釈迦三尊

法隆寺釈迦三尊images


 法隆寺金堂の須弥壇が修理中ということで、いまは釈迦三尊像と薬師如来座像が上御堂に「緊急避難」しておられる。普段は金堂の暗闇のなか、遠方から懐中電灯を照らして、なんとか拝観できるこれらの仏様が、この期間中は上御堂の前面におわし、白日のもとおそば近くで接することができる。

 時間のたつのも忘れてじっと凝視していたが、突然、ある疑問が湧いてきた。法隆寺再建・非再建論争は措くとしても、この釈迦三尊像は、かっての、あるいはいまの金堂ができたとき、本来の「あるべき」ご本尊として造られたのかどうかについての問いである。私は金堂の内陣の大きさや脇侍の像高のある四天王に対して、不釣り合いにあまりに「小さすぎる」のではないかと思ったーーこの感覚は、お側近くに接してはじめて今回もつものであった。イマジネーションが増し、それ以前のどこかの極めて所縁のある寺院から運ばれた<客仏>ではないか・・・。

 少なくとも当初、若草伽藍におわしたご本尊は、いまの飛鳥寺(旧法興寺)の釈迦如来像と同様な「丈六」の仏様でなければ据わりが悪いのではないか。また、若草伽藍が焼失した際に、本来の、あるいはいまの釈迦三尊像を機敏に運び出せたとは常識的にはとても思えない。よって、若草伽藍とともに当初造像され仏様は灰燼に帰した可能性が高く、その後、建立された現在の伽藍にあって、金堂にふさわしい本尊をもっとも近しいお寺から運んできたのではないかと思った次第である。これは、上原和氏がかって指摘されていた視点とも符合する。

 一方、高田良信編・著の『聖徳太子の生涯と信仰』法隆寺刊 1995年を読んでいると、再建された頃の法隆寺の懐具合はけっして楽ではなかったようだ。しかし、高田師は上記のような見解はとられておらず、若草伽藍があった時代に同時併行的に現堂宇の建立ははじまっており、釈迦三尊像も古い時代に造像され、新金堂には運ばれたとのご意見だが、仮に十分な資金がなかったとすれば<客仏>説にも一定の合理性はあるようにも思う。

 よく尊顔の表情の厳しさなどの様式史から、釈迦三尊像は早い時期に造像され、薬師如来像はそれとの対比で時代が下るとの説もなされるが、釈迦三尊像の二等辺三角形を徹底して意識した構図や、本尊と両脇侍の目線の位置の絶妙なバランス感覚などでの秀でた意匠性は、<プリミティブさ>からは無縁であり、様式史をもって単純に年代が遡るとは言えないと思う。銘文は重視しつつも、このあたりはもっと考えを巡らす必要がありそうだ。

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

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