大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

法隆寺・小考2:救世観音

救世観音

 このスーパー・アップの仏様が、法隆寺の救世観音である。法隆寺に謎はないのか、あるいは全体が謎なのか、その表象こそがこの大柄な立像の微笑に秘められている。

 文献史学的には、わかっているようで、実は何一つ底を踏めない証左がこの観音様で、いつ、どのような目的で、誰が造像したのかも不明である。彫刻様式史的には、飛鳥時代後期に位置する説があり、レンジはあるが比較的、作造の時代が察せられる金堂釈迦三尊との近接性が語られ、聖徳太子の姿を写したとも言われるが、確たる考証はない。

 明治初期にかのフェノロサ、岡倉天心がこの仏像を「発見」した劇的なエピソードはあまりに有名だが、最近は異説も語られるようになった。だいたい、今日までかかる見事な保存によるお姿で残されていること自体、法隆寺の連綿たる血の滲むようなさまざまな苦労があったからこそで、それを思うと、「妄信」に毒されて開扉を断ったという当時の法隆寺の僧の「後進性」が語られるのはあまりに一方的な気がする(朝日新聞 2008年12月2日夕刊 法隆寺高田良信長老の談)。

 日経新聞2008年12月13日(土)の文化欄「フェノロサ没後100年『日本美術の恩人』再発見 多彩な業績 共生を模索」は読ませる記事だが、ここではそうしたエピソードはあえて記されていない。最近の岡倉天心再評価のNHKの番組を見ても、(後年では「不仲説」もあるものの)両氏ともに、東西文化の融合という巨大な理念、構想をもち、そのうえに立って現前にある文化財に接していたことに感銘を受ける。

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(参考)
救世観音(くせかんのん・ぐぜかんのん)
 国宝観音菩薩立像(救世観音)は八角円堂で知られる夢殿のご本尊で秘仏として長い間人目ん触れず過ごしてきた仏像です。
 飛鳥時代に造られた樟の木の一木造りです。像178.8cm、下地は漆を塗り、白土地に金箔を押している。保存もよく、いまなお金色燦然と、当初の漆箔が輝いています。
独特の体躯の造形を有し(体躯がやや扁平で、S字状のポーズ)、杏仁形(アーモンド形)の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的で、手にはすべての願いがかなうという宝珠を持っています。
 761年(天平宝字5年)の記録に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、聖徳太子の等身像ともいわれて秘仏であったが、明治17年アメリカ人の学者フェノロサと近代美術の先駆者、岡倉天心によって像を幾重にも覆っていた長い白布が除かれ広く世に知られるようになりました。当時、この秘仏の白布をとることは、聖徳太子の怒りに触れ、大地震が起こると言われていました。そして天心とフェノロサが布をとるとき、法隆寺の僧たちは恐れをなして、逃げていったと言います。

春4月11日~5月18日、秋10月22日~11月22日 の期間、夢殿本尊特別開扉されます。
http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/nara/horyuji/horyuji4.html

(参考2)
2008年 5月14日 (水) 放送 第324回 日本人の心を守れ 〜岡倉天心・廃仏毀釈からの復興〜
番組概要:その時歴史が動いたー 明治36(1903)年5月1日

出来事: 現在の文化財修理の基本原則となっている「現状維持修理法」にて東大寺仏像修理が成功する

 大勢の観光客が訪れる古都・奈良。出迎えるのは1000年以上のときを経て今に伝わる仏像の数々。しかし今から140年前、それらの寺や仏像は消滅の危機に瀕していた。きっかけは明治維新の最中に起きた仏教排斥運動、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)。仏像は壊され、薪として燃やされてしまう。
 仏像を救おうと立ち上がったのが近代日本美術の発展に多大な功績を残した岡倉天心だった。急激な西欧化を批判した天心は、文部官僚として10年間で21万件もの仏像や文化財を調査、文化財保護の法律を作るよう訴えるなど、その保護に力を尽くす。
 しかし、いよいよ東大寺法華堂の不空羂索(ふくうけんさく)観音像の修理に取り掛ろうとした時、天心は問題に直面する。つまり「仏像は部分が欠けていると信仰の対象となりにくいが、かと言って闇雲な修理をすれば美術品としての価値を損なう」ということだった。悩んだ末、天心は美術と信仰の両方の価値観を満足させる「現状維持修理」という方法に行き着く。
 仏像保護を通じて、そこに込められた「日本人の精神性」を守ろうとした岡倉天心。番組では、本質を見抜く目を持った天心の生涯を追い、捨て去られようとしていた日本古来の伝統美術が、いかに今日の我々に伝えられたか、その知られざるドラマを描く。

番組の内容について
 「7年前の岡倉天心の放送」2001年5月23日放送「その時歴史が動いた・天心の恋〜東洋の美を追い続けた男〜」
 岡倉天心がインドの女流詩人と交わした往復書簡の内容を中心に、日本や東洋の美の素晴らしさを訴えた天心の生涯を紹介。その時を「明治36(1903)年5月1日」としたことについて
 岡倉天心や弟子の新納忠之介たちは、明治36年以前から修理を手がけている。明治30年、天心が東京美術学校の校長をしていた時代に中尊寺金色堂の諸仏を、また明治31年、日本美術院を設立してからは古社寺保存法に基づく第一号として、高野山の八大童子の修理を手がけた。ただし、それはあくまでひび割れなどの欠損を漆などで補充するなどの応急処置に止まっていた。ところが、明治34年から36年にかけて行われた東大寺法華堂の不空羂索(ふくうけんさく)観音像を初めとする諸仏の修理では、仏像が信仰の対象になり得るよう取り外し出来る部分を作り接合するという修理が初めて行われたと考えられている。(美術院に残る修理記録より)
 その手法は現在国宝の仏像修理を主に行っている「財団法人美術院国宝修理所」にも受け継がれ、「現状維持修理」と呼ばれている。それは、遺されている姿をこれ以上損傷させないよう保持することを目的とし、部分が欠けていて信仰の対象となりにくい時は取り外し出来る部分を作って補修復元する。
 美術品(文化財)であると同時に信仰の対象である仏像の修理において、こうした手法が開発された意義は非常に大きいと考え、今回の「その時」を東大寺法華堂の諸仏の修理が完成した「明治36年5月1日」とした。
 ちなみに日付は日本美術院が明治36年6月に発行した『日本美術』第52号に掲載された「東大寺法華堂仏像修理報告」に「去る明治34年12月23日を以って起工式を挙げ、今明治36年5月1日に至り其竣成を告ぐ」という記事に拠った。

コメント「東京大学を卒業したばかり、17歳の岡倉天心…」
 岡倉天心の経歴は下記の通り(「岡倉天心全集」より)。番組では満年齢を紹介したが、当時は数え年齢だったので、14歳で大学に入学し、19歳で卒業したことになる。これでも十分若い。それは当時、義務教育などの学制が整っていなかったため年齢が若くても入学できたからだった。

1863年(文久03年) 2月14日 横浜で生まれる(旧暦1862年12月26日)
1875年(明治08年) 満12歳(数え14歳) 東京開成学校(後に東京大学と改称)に入学
1880年(明治13年) 満17歳(数え19歳) 東京大学を卒業。フェノロサとともに奈良を訪れる

写真
「腕が欠損した阿修羅像(興福寺)」
 欠損は廃仏毀釈によるものかどうかはっきりしておらず、享保2年(1717)に起きた火災によるものとも言われる。ただ、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)による直接的な被害が最もひどかった慶応4年(明治元年)から明治4年以後も仏像の興廃は進んだ。それは、寺院の経済的な基盤だった所領が新政府によって接収され(明治4年の「寺領上知令」)、寺院の困窮が深刻だったため。仏像は、修理も受けられないまま放置されるという間接的な被害を受けた。番組では、明治政府の宗教政策によって蒙った被害の一例として紹介した。

「神仏分離令」
 神仏分離令という命令はなく、明治政府が慶応4(1868)年3月17日から発した一連の布達の総称である(「国史大辞典」より)。番組で紹介したのは、同年3月28日の太政官布告(「神仏判然令」)。神体を仏像としている神社は仏像を取り払い、神社から仏具などを取り除くよう命じたもの。
原文は「仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事」(太字部=映像で紹介)

「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」
 「廃仏毀釈」とは仏教寺院や僧侶を排斥する思想や行動のこと。明治政府の「神仏分離令」をきっかけに全国的に展開された。「寺院僧侶から収奪の限りを尽くされていた民衆も、廃仏毀釈運動にはこぞって参加し、堂塔・伽藍や、仏像・仏画・絵巻物・経典・什物などの破却・焼却手を貸した(「国史大辞典」より)」と言う。特に被害が大きかったのが、岐阜県中津川市、長野県松本市、富山県全域、鹿児島県全域、佐渡、隠岐、京都市、奈良市など。

コメント
「僧侶全員が隣の春日大社の神官になっていた」
 藤原氏の氏寺だった興福寺は、代々、京都の公家から門跡を迎えるなど、新政府と関わりが深かった。特に「神仏分離令」には過敏に反応し、僧侶130名余りが隣にある春日大社の神官になりたいと願い出、認められた(「明治維新神仏分離史料」「立命館大学考古学論集Ⅲ」より)。その後、興福寺は明治5年に廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の状態だった。

経典を商品の包み紙にする映像・仏像は薪として燃やす映像
興福寺の経典が商品の包み紙にされたり、仏像が薪として燃やされたりする内容は、「明治維新神仏分離史料」の記述を下にイメージ映像を撮影した。

コメント
「五重塔当時5両、今の価値にして2万円で売り飛ばされる」
 「五両」…奈良興福寺への取材による。さらに番組では、昭和5年11月11日付の「奈良新聞」の記事を紹介した。
 「2万円」…売却が行われたのは慶応4年から明治の初め頃と考えられる。日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、慶応3年の大阪の米価から計算した一両の価値は3千円〜4千円。そこで番組では2万円と紹介した。

天心の言葉「遺跡は血に染まり…」
 漢詩塾・茉莉吟社発行の『新文詩集』73集に掲載された岡倉天心の漢詩「南都懐古」より抜粋。
奈良を訪れた翌年の明治14年、岡倉天心が「種梅鋤夫」の筆名で書いた七言絶句。奈良の荒廃を描写した漢詩と考えられている。
 原文は「残碑血染碧苔腥 露鬼風魂哭古庭 欲掃秋刀説興廃 笠山雲暗夜無星」。(遺跡は血に染まり緑の苔までなまぐさい 鬼や霊が古庭で哭いている 刀を振るい邪鬼を払おうとして 時の興廃に思いは至る 三笠山にかかる雲は暗く星もない)※太字部は番組で紹介した部分。

バーミヤンの石仏が破壊される映像
 2001年3月、アフガニスタン最大の仏教遺跡バーミヤンの大仏がタリバンによって破壊された。破壊の瞬間の映像はAP通信が配信した映像。

天心が文部大臣にあてた意見書の草稿
 「文部省ニ美術局ヲ設ケラレ度意見」と題された草稿。「岡倉天心全集 第三巻」より抜粋。
明治19年1月から3月の間に書かれたと考えられる上申書の草稿。
原文は「美術保存 全国ニ存在スル古来ノ美術品ハ未タ何等ノ保存法ヲ設ケス 今日ニシテ之ヲ顧ミサレハ悔フルモ亦及ハサルニ至ルヘシ」(太字部は番組で紹介した部分)

テロップ「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」
 アジアから脱し、西洋文明を取り入れて近代化し西洋諸国の仲間入りを果たそうという明治初期の思想。1885年(明治18年)3月、福沢諭吉が「時事新報」に発表した「脱亜論」が代表的。
またテロップを紹介した背景は明治16年に作られた鹿鳴館のイメージ映像。

テロップ「ベルツの日記〜今の日本人は過去について…」
 ベルツは、ドイツの医学者。1876年(明治9年)東京医学校教師として来日、日本医学の発展に貢献した。また、日常の出来事や目にする日本人の様子を記した「ベルツの日記」は、明治日本の様子を客観的に記録した資料として高く評価されている。抜粋したのは1876(明治9)年の記述。
抜粋部分は「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。中には『我々日本人には歴史はありません。今からやっと始まるのです』という人さえいる。」

明治19年、天心が日本絵画の鑑賞会に伊藤を招いたエピソード
 日本画の鑑賞会とは、明治19年4月に、岡倉天心がフェノロサとともに開催した第二回目の鑑画会大会のこと。伊藤が招かれたときの様子は、天心の同志だった画家の狩野芳崖の弟子、岡不崩が次のように描写している。
 「この時代は非常な西洋心酔の極度に達せし頃で、鹿鳴館では盛んに舞踏があった頃なので日本絵画などは返り見ない。やるなら油絵がよかろうという様な有様である。(中略)さすがの鹿鳴館流の伊藤さんも芳崖の仁王(※)や龍を見て大いに感服せられた。日本画も之ならばたしかに西洋画と対抗することが出来るだろうと思われた」(「日本美術院百年史 一巻(資料編)」の岡不崩談話からの抜粋)

※「仁王」=狩野芳崖画「仁王捉鬼(におうそっき)」。映像で伊藤博文とフェノロサが見ていた絵画。

トルソーの彫刻
 「トルソー」とは、首や手足のない胴体だけの彫刻のこと。天心が目にしたのは、バチカン美術館に展示されていた「ヘラクレスのトルソー」という彫刻(現在の呼称は「ベルヴェデーレのトルソー」)。
天心は欧州視察日誌にて、このトルソーを「Torso of Herakles very grand」(ヘラクレスのトルソーは大変壮大である)と高く評価している。

古社寺保存法
 1897(明治30)年に施行された日本初の文化財保護法。古社寺にある仏像で「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「国宝」に指定し、保護することを謳っている。特にその第一条は、維持修理が難しい時、国に保存金の出願が出来ることを規定している。

天心をおとしめる怪文書
 明治31年3月「築地警醒会」の名で関係者に郵送された文書。岡倉天心を誹謗中傷する内容が書き連ねてある。この怪文書をきっかけに、岡倉天心は東京美術学校の校長職などを追われるが、その背景には、美術界における洋画派やそれに同調するジャーナリズムの、伝統美術を重要視する天心の姿勢への反発があったと考えられている。
抜粋部分は、「幾萬ノ國財ヲ費シテ」「美術自然ノ発達ニ背馳シ大ニ其ノ進歩ヲ障礙セリ」(幾万の国の財産を費やしておきながら、美術の発達に背を向けその進歩を妨害している)

天心が立ち上げた日本美術院と仏像修理
 明治31年7月、岡倉天心は横山大観や下村観山など東京美術学校の弟子や同志と民間の美術団体「日本美術院」を設立するが、当初から「美術制作」だけでなく「仏像修理」を目的に掲げ弟子の新納忠之介を中心に行わせた。
 その後、天心没後の1914(大正3)年、仏像修理部門は、日本美術院から独立し「美術院」と改称。これが、今日の「財団法人 美術院国宝修理所」になる。

古社寺保存法の第一候補にあがっていた不空羂索観音像
 美術院の会計記録によれば、明治31年、古社寺保存法に基づいた第一回修理の対象となった仏像に、東大寺法華堂の不空羂索観音像が含まれていた。しかし、この年には修理は行われず、実際に行われたのは番組で紹介した明治34年だった。

東大寺法華堂 多聞天の足元にいる邪鬼の頭が欠けた映像
 映像はCG(コンピューター・グラフィックス)で作成した。参考にしたのは、昭和3年に新納忠之介が当時の宗教局という役所に出した資料(美術院国宝修理所蔵)で、「当時既に頭部より破損紛失して…」と記されている。また多聞天と邪鬼は木造ではなく「脱活乾漆(だっかつかんしつ)」という技法で作られているため、中は空洞になっていたと考えられ、そうした情報を元にCGを作成した。

それまでの修理のCG
 「美術院国宝修理所」によれば、江戸時代の修理には、仏像の手の形や組み方(印相)を厳密に考察することなく、手を大きく「パー」の状態で修理したり、技術が未熟なため本来の仏像に比べて粗悪な造りの部品が付けたりする事があったと言う。それらの情報に基づき「釈迦如来像」をモデルに作成。

新納忠之介
 1868〜1954。鹿児島出身の仏像修理技術者。元々、東京美術学校で彫刻を学んでいたが、岡倉天心に目をかけられ、仏像修理部門の責任者に抜擢される。

東大寺法華堂の修理
 前出の昭和3年に新納忠之介が当時の宗教局という役所に出した資料(美術院国宝修理所蔵)によれば、多聞天の邪鬼の修理について「時の工事監督岡倉先生と協議の上一時的の仮頭部を造ることに決定し泥土を以って内部を造りその上に漆にて麻布を張り未成品の頭部を作成し…」とある。この記述から、新納忠ノ介がその修理方針について岡倉天心の指導を受けながら決めたことが分かる。
 また、邪鬼の頭の接着について自然の粘着力で付けたといのは、美術院の修理技術者の見解である。

番組で紹介した岡倉天心の墓
 1913(大正2)年9月2日、岡倉天心は療養先の新潟県赤倉で病没、遺骨は東京豊島区の染井墓地に納骨される。さらに同月、晩年を過ごした茨城県北茨城市五浦の旧宅の一角に分骨された。映像で紹介したのは、茨城県の墳墓。

天心が生涯手元に置いた観音像
 4年前、茨城県北茨城市の長松寺で発見された高さ30センチ余りの「観音菩薩立像」。岡倉天心の釣り船の操船を任されていた渡辺千代次氏が納めた品。前後に割られ、背面、両肩先は欠損、裾から下は朽ちている。

天心の言葉
 岡倉天心が1904(明治37)年、ニューヨークで出版した「The Awakening of Japan」(日本の覚醒)より抜粋、意訳した。
抜粋個所は、「昔から日本には外国からの思想が殺到してきたが、日本人は伝統を尊重し、自らの個性を大切にしてきた。」「われわれは今後もさらに西欧化していこうとしているが、世界から尊敬を得るには、われわれ自身の理想に忠実であることを忘れてはならない。」

番組で使用した写真や資料の所蔵先・出典
人物写真
17歳頃の岡倉天心=東京藝術大学大学美術館蔵
35歳頃の岡倉天心=茨城県天心記念五浦美術館蔵
フェノロサ=東京藝術大学大学美術館蔵
新納忠之介=美術院国宝修理所蔵
横山大観=NHK
下村観山=国立国会図書館蔵

仏像の写真
「興福寺の破損仏」=フェノロサの著作「Epochs of Chinese and Japanese Art」(「東洋美術史網」として日本語訳出版)より転載。1882年、興福寺で撮影されたものと考えられている。
「腕が欠損した阿修羅像(興福寺)」=入江泰吉記念奈良市写真美術館蔵。明治30年頃、写真家・工藤利三郎が撮影した写真。
「首と手が壊れ、失われている仏像」=東京国博物館蔵。唐招提寺の仏像「如来形像(にょらいぎょうぞう)」の写真。明治21年撮影。「唐招提寺のトルソー」と呼ばれる。
「不空羂索観音像のお腹の部分(現在)」=奈良市の写真店・立飛鳥園蔵。
「同上(修理前)」=東京国立博物館蔵。明治21年撮影。
「日光菩薩像(指の欠けた写真)」=東京国立博物館蔵。明治21年撮影。
「日光菩薩像(指が付いた写真)」=美術院国宝修理所蔵。
「東大寺戒壇院 四天王像(増長天)」=美術院企画のビデオ「美術院 国宝修理百年」より転載
「たくさんの仏像写真」=入江泰吉記念奈良市写真美術館蔵。工藤利三郎・入江泰吉撮影写真。

資料
「神仏分離令」=国立公文書館蔵。太政官布告より接写。
「神官になった興福寺僧侶の名簿」=奈良県立図書情報館蔵。奈良県行政文書「興福寺復飾僧侶人名」(明治7年)。※「復飾」は、僧侶が還俗して俗人の戻ること。
「興福寺五重塔の売却価格が五両と書かれた新聞」=奈良県立図書情報館蔵。昭和5年11月11日付の「奈良新聞」の記事。
「古社寺保存法」=国立公文書館所蔵。法令集より接写。
「岡倉天心が公職を追われるきっかけの怪文書」=東京藝術大学大学美術館蔵。

その他
「ベルツの日記を紹介する際に使用した写真」
 電車に乗る人々=毎日フォトバンク。
 自転車に乗る青年・人力車に乗る女性=NHK
 洋服を着た2人の婦人=「幕末・明治美人帖/ポーラ文化研究所編」より転載。
「再現映像で伊藤博文とフェノロサが見ていた絵画」=狩野芳崖画の「仁王捉鬼」。
「帝国議会場の写真」=国立国会図書館
「日本美術院設立時の写真」=日本美術院蔵
「日本美術院で横山大観などが絵を描いている写真」=NHK
VTRに登場した仏像
弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像/中宮寺(奈良県斑鳩町)
救世観音(くせかんのん)像/法隆寺夢殿(奈良県斑鳩町)
十二神将(じゅうにしんしょう)像/新薬師寺(奈良市)
腕の欠けた仏像の写真=阿修羅像/興福寺(奈良市)
再現映像で天心が見ている仏像=十一面観音像/法華寺(奈良市)
弥勒菩薩半跏像/中宮寺(奈良県斑鳩町)
薬師如来像/薬師寺(奈良県斑鳩町)
不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)像/東大寺法華堂(奈良市)
日光菩薩(にっこうぼさつ)像/東大寺法華堂(奈良市)
四天王(多聞天(たもんてん))の邪鬼(じゃき)/東大寺法華堂(奈良市)
後に修理された仏像①=四天王像の増長天(ぞうちょうてん)/東大寺戒壇院(奈良市)
後に修理された仏像②=阿修羅像/興福寺(奈良市)
十二神将像/新薬師寺(奈良市)
不空羂索観音像/東大寺法華堂(奈良市)

岡倉天心に関する記念館
茨城県天心記念五浦美術館
 岡倉天心の足跡を紹介した常設展示あり
 〒319-1703 茨城県北茨城市大津町椿2083  TEL 0293-46-5311
茨城大学五浦美術文化研究所
 岡倉天心の邸宅や晩年、思索をめぐらした六角堂を見学できる
 〒319-1703 茨城県北茨城市大津町五浦727-2  TEL 0293-46-0766
主な参考文献
「岡倉天心全集 第一巻〜第八巻」(平凡社)
「東京国立博物館百年史」(東京国立博物館)
「日本美術院百年史」(日本美術院)
「奈良県の百年」(山川出版社)

「岡倉天心」(木下長宏著 ミネルヴァ書房)
「美の復権 岡倉覚三伝」(中村愿著 邑心文庫)
「岡倉天心と五浦」(森田義之・小泉晋弥編 中央公論美術出版)
「岡倉天心アルバム」(中村愿編 茨城大学五浦美術文化研究所監修 中央公論美術出版)
「岡倉天心−芸術教育の歩み−」(東京藝術大学)
「ワタリウム美術館の岡倉天心・研究会」(右文書院)
「<日本美術>誕生 近代日本の「ことば」と戦略」(佐藤道信著 講談社選書メチエ)
「近代天皇制の文化史的研究」(高木博志著 校倉書房)
「眼の神殿」(北澤憲昭著 美術出版社)
「ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵アーネスト・F・フェノロサ資料」(村形明子編訳 ミュージアム出版)
「アーネスト・F・フェノロサ文書集成−翻刻・翻訳と研究」(村形明子著 京都大学学術出版会)

「新納忠之介五十回忌記念 仏像修理五十年」(美術院)
「美術院紀要 第一号・第七号」(美術院)
「没後五十年 新納忠之介展 仏像修理にかけた生涯」(鹿児島市立美術館)
「文化財の保存と修復①⑤⑥⑦」(文化財保存修復学会編 クバプロ)

「明治維新神仏分離史料」(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬共編 東方書院)
「立命館大学考古学論集Ⅲ 明治時代に於ける興福寺と什宝」(立命館大学)
「廃仏毀釈」(柴田道賢著 公論社)
「神仏分離」(圭室文雄著 教育社)
「ベルツの日記」(トク・ベルツ編・菅沼竜太郎訳 岩波書店)
※絶版となったものもあります。出版社などにご確認下さい。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html#01

テーマ:文明・文化&思想 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント

三大微笑

法隆寺釈迦三尊と同じように、この救世観音も金箔の剥離の具合が表情に本来無いものを付け加えて見る者に誤解を与えています。原始的な顔とか野生の表情とか、異様さが言われているのを聞いたことがあります。どんな品格のある顔も、口の周りを黒く塗ってみれば、昔の漫画で典型的なヒゲの濃いドロボーのおじさんの顔になります。さらにこの写真でいえば顔の向かって左半分が明るすぎるのです。それが口の周りの暗さを強調するのです。
試しに、左半分を隠して、比較的暗いお顔の右半分と口元を一緒に見てみると違和感がないばかりか、本来の慈悲の表情が現れます。これは原始的な印象からくる、呪ったり、呪われたりとは無縁の表情です。中宮時の弥勒菩薩のように金箔が完全に無くなってしまえば印象は随分と違うでしょう。本来の造形は近づいて凝視しなければ解らないこともあります。世界の三大微笑は斑鳩だけでそろいますね。

  • 2008/12/17(水) 22:30:18 |
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  • 2009/11/22(日) 00:09:24 |
  • ロドリゲスインテリーン

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