大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)

仏像カレンダー 1

【上記および以下はすべて引用です】
https://www.amazon.co.jp/gp/product/463585213X/ref=pe_1863752_244288452_em_1p_0_ti 【“仏像 (ポストカード) (ヤマケイカレンダー2017)”の続きを読む】

阿育王

阿育王

『阿育王』(小説仏教シリーズ11)上田 圭子 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17373456.html

仏教が世界宗教として成立するためには、布教に向けての強大な権力者の存在があった。歴史は、そのはじめの王として、阿育王(アショーカ:梵: अशोकः 、IAST:Aśokaḥ、巴: Asoka、訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)をあげる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B

本書は、阿育王が非情なる修羅の世界をへて、仏教に信心し、彼の築いた大帝国にそれを広めていく過程を丁寧に描いている。激情型の暴君で、側近、臣下を皆殺しにし、多くの犠牲をしいる侵略戦争ののち、改心して仏教(ほかの宗教も含めて)に帰依していく。
不戦を掲げ法治国家を目指す施策を展開するが、その根源に仏教的な慈悲の精神をおく、といった要約となろうか。アレキサンダー大王ばりの電光石火の侵略を行なう絶対君主としての前半生、版図確定後の哲人政治を敷く後半生は暗から明への場面転換の如くである。

おそらく、多くの資料を渉猟しなんらかの出典に添って伝記を書きすすめているがゆえに、やや辻褄のあわない部分や、なによりも突然、極悪人が聖人のように変貌するあたりに不自然さも感じるが、全体としては、生真面目な筆致で阿育王の業績を丹念にトレースしているように思え、好感をもって読了。

カニシカ王

カニシカ王

『カニシカ王』(小説仏教シリーズ13) 木戸秀夫 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17503249.html

 この本を読んでいて考えたのは、文明の伝播とは何かということである。カニシカ王(Kanishka I、κανηϸκε κοϸανο (クシャーナ朝のカニシカ)、漢訳仏典では迦膩色迦などと表記)は2世紀中葉に大帝国を築いた名君といわれる。インドおよび周辺広域において、仏教を国教として隆盛させたのみならず、この段階で厖大なエネルギーをもって仏典、仏塔、仏像を整備して、結果としてそれが中国に伝えられたという歴史的に大きな功績もある。

 しかし、一方でインドにおいてはその後、仏教は廃れ他の宗教にとって代わられる。いまでもインドは、ヒンドゥー教やイスラム教が多く信仰され仏教信徒は1%に満たないようだ。しかし、インドから中国に伝播された仏教は、より深化されてその教義も磨かれる。さらに、そのエッセンスを必死に勉強したのが極東に位置する日本であり、多くの仏典、仏具、仏像が結果的にこの小さな島国に集積されることになる。

風土の違いは民族に決定的な違いをあたえるだろう。しかし人種、歴史、文化、宗教の違いにもかかわらず、ある文化的な産物は異国に舶載され、そこで変化しさらに別の国にと伝えられていく。不思議なことだが、人々に支持されない(感動を与えない)ものは、もちろん自国においても淘汰され、他国にもたらされてもそこで胚胎することはないだろう。しかし、良いもの(普遍性をそなえたもの)は、国境を越え、民族を超えて、あたかも自ら命をもち運動をするように伝えられていく。さらに、そうした伝播の過程において、多くの時間ととともに、進化され磨かれ洗練されて普遍性を増していく場合もあるだろう。仏像はその一典型ではないかと思う。
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龍樹菩薩

龍樹菩薩

『龍樹菩薩』(小説仏教シリーズ14)池田 得太郎 第三文明社 1974年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17553531.html

単純な頭では単純なことしか考えられない。しかし、人間の感性は実は深く複雑な心象をもっており、それを十分に表現できないだけということなのかも知れない。子供は「穢れなき心象」をもっているが、それを表現する術はもたない。大人になれば、誰しも様々な煩悩が芽生えてくる。その一方、学問をすることによって一定の表現手段を有するが、しかし、残念ながら「穢れなき心象」はもはや失われており、それを的確には捉えられない。

ところで、一部の人間は、この「穢れなき心象」を懸命に捉えようとする。様々な煩悩を生じさせないように規律をもって身を正し、いわば子供のような精神状態に近づくことによって、「穢れなき心象」を追体験し、それを表現せんと試みる。こうした営為はそれだけでどうして大変なことだが、大局からみれば常識的なもので、修業の階梯としてはさほど高いものではない。


それとは異質の哲学的な発想をもった者も時に出現する。「無」と「有」(「無いもの」と「有るもの」の区別)という常識的な判断を超えて、両者とは異次元の「空」という新しい概念を考えだした天才こそが龍樹菩薩である。

本書では、それを類推させるべく、数学におけるゼロの発見を比喩でつかっているが、宗教的(仏教)では、この「空」は、いわば「穢れなき心象」と言い換えてもよいかも知れない。そこで重要なのは、静態的、内省的な営為(ひたすら人格的な陶冶を目指す「小乗」)によってではそれは体得できないということである。宇宙の運動論にも似て、動態的、外延的な営為(分け隔てのない人民の不断の救済を目指す「大乗」)によってのみ、「穢れなき心象」に無限に接近することができるという観念が「空」である。全宇宙の運動を、一個の人間の心象の運動に見立てているとでも言えようか。仏陀の教えのなかから、こうした「空」の観念論を導こうとしたのが龍樹菩薩であり、それをより体系的、実践的に措定したのが無著と世親であり、龍樹菩薩の大乗論を中国語に翻訳せんと努力したのが鳩摩羅什である。


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本書と以下2冊を読んでの小生の拙い感想だが、本書では龍樹の仮想的な伝説をリアリティある物語として書き下した点に特色があり、いわゆる「空観論」についてはサラリと触れているにすぎない。しかし、書き下しにはご苦労があったろうと思う。後宮に入り込み数多の宮廷女を犯す部分は一行をもって述べ、空から兵馬が降ってくるスペクタクルspectacleな戦闘場面は竜巻の出現をもって代替表現する。ただ、後半に行くにしたがって、龍樹菩薩の「徳」が見えにくくなる憾みがあるように思う。そこもいかにもインド的な特質かも知れないが。

(参考)空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-252.html 【“龍樹菩薩”の続きを読む】

無著と世親

無著と世親

『無著と世親』(小説仏教シリーズ15 ) 木村園江 第三文明社 1975年
http://blogs.yahoo.co.jp/kojinnbook999/17600508.html

工夫されたプロットで、筆力ある作品。2人の主役は、弟・世親(ヴァスバンドゥ)がまず前半で集中的に描かれ、後半に兄・無著(アサンガ)が登場しこれもその厳しい修業の過程が詳述される。そして、いよいよこの2人が邂逅(再会)した後、物語は終盤に劇的な展開をみせる。

このプロットは、実は「止揚」の過程を描くものでもあり、ヴァスバンドゥはバラモン教(外道)から解脱し、これを破砕することで小乗仏教の一大論客として成長する。王家の手厚い庇護をうけ、いわば国教化した大僧侶に栄達する。この小乗仏教に真っ向対峙し、それを超克したアサンガは、弟のヴァスバンドゥを折伏するのだが、それは論戦に勝つことよりも、実践哲学たる大乗仏教の優位性を説くことにあった。したがって、そのプロットはバラモン教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程を描くことに主眼がある。

民衆に分け入り、人々の救済にこそ仏教の実践的な意味を見い出すアサンガは、ヴァスバンドゥとの論戦を制するけれども、その後の学理究明、その普及においてはヴァスバンドゥがより優れ、アサンガの最良の後継者となる逆転の展開には鮮烈な効果がある。

さらに、仏に成るべく克己に集中する小乗仏教は、貴族主義的でその信奉者もカースト制における支配階層に限定される。対して、最底辺の人々の救済をも射程にいれた大乗仏教は、その思想の大きさにおいて小乗仏教を包摂する関係にある。ヴァスバンドゥがそれまで築いてきた唯識論哲学は、けっして無為ではなく必要なる解脱のプロセスであり、むしろ、大乗仏教に乗りかえることによって、よりその普遍性を獲得する。こうしたプロットは実によく考えているなあと感心した。学理解釈にも必要な部分では筆をすすめた苦心の作である。


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無著(アサンガ)

無著と世親については、日本仏像彫刻においては、運慶工房の秀作によって、広く知られている。世親像については、1975年の東京での展覧会ではじめて見た。その後、興福寺北円堂でいくども無著像、世親像にはおめにかかっている。鎌倉彫刻における写実主義の頂点にたつ作品というのみならず、この仏教界の偉人を、イマジネーション豊かな巨魁として表現したその技量に感服する。

(参考)日本、会心の国 254!ー  運慶工房の秀作、秋の公開
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1969475.html

(参考)無着、世親
http://blog.livedoor.jp/shokkou/archives/1830204.html

日本の美術 第10号 肖像彫刻 編:毛利久 昭和42年 至文堂
世親(ヴァスバンドゥ)

無著と世親の仏教哲学上の位置づけについては、かつて空海について調べていた時に、いささか学んだ。唯識論は、西洋哲学の分析法と意外なくらい共通する部分もあり、フロイドの「リビドー説」を先取りしているような部分もある。人間の徹底した哲学的な営為は、洋の東西を問わず通底するものなのかも知れない、とも思う。

(参考)空海と密教美術展 空海について考える2 十住心論の体系
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-252.html

本書はさほどのボリュームではないが、1週間をかけてじっくりと読んだ。木村園江女史の緻密な筆致を味わいつつ、この仏教哲学者の話は、仏像鑑賞の心得としてもよき指南書ではないかと思えたからである。仏像はもの言わぬ静態的な存在である。しかし、仏像と対峙して、そこからなにを学ぶかには、観る側の精神のありようが問われる。原始宗教→小乗仏教→大乗仏教への進化の道程は、実は仏像鑑賞の観る側の動態的な変化を促し、また、場合によれば「見せる側」の寺院の姿勢を問うているかも知れない。

(参考)唯識
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

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無著(アサンガ)

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