大和古仏探訪

京阪神を中心に内外の古仏についていろいろと書いてみたいと思います。

空海と運慶 2

弘法大師像天福元年・1233康勝作)

6.康勝

康勝は運慶の息子で、運慶工房の優れた担い手であった。その康勝の代表作といわれるのが、東寺の弘法大師座像である。この坐像はその後の大師像のベンチマークとなる。しかも、この像の存在によって、東寺は空海所縁の寺として、弘法大師信仰の京都における拠点として復活するのである。このことは東寺の歴史を紐解くとたしかに刻まれている。

そう考えると、運慶一門の修復によって、東寺講堂の諸像が蘇り、それに続いて康勝によって東寺そのものの存在が高まったということになる。空海と運慶 ー 空海が請来し、また世に送った平安初期の仏像によって運慶は多くを学び、その後、自身の作風を作りあげた。一方、親子二代、運慶一門の「彫技」によって、空海の重要な拠点が再興されたことの意義は大きい。

【以下は引用】
康勝(こうしょう、生没年不詳)は、日本の鎌倉時代の仏師。運慶の四男。湛慶は兄。慶派。

<略伝>

建久8 - 9年(1197 - 1198年)、東寺南大門の金剛力士(仁王)像(明治時代初頭に焼失し現存せず)の造立に運慶らとともに携わったのが、史料上の初見である。運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)に完成させた興福寺北円堂復興造仏にあたっては、四天王のうちの多聞天像を担当しているが、この四天王像は現在、所在不明である(現在、興福寺北円堂に安置する四天王像は全く時代の違う平安時代初期のもの)。

現存する康勝の作品としては、日本の肖像彫刻として屈指の著名作である空也上人像(六波羅蜜寺蔵)、後世の弘法大師像の規範となった東寺御影堂の弘法大師(空海)像(『東宝記』に「仏師康勝法眼作」の記述あり)などがある

東大寺念仏堂の地蔵菩薩坐像(康清作)の銘記から、この像は運慶と康勝の尊霊のために造られ、嘉禎3年(1237年)より以前に康勝が没していることが知られる。子に、康誉、康清。

<作品>

六波羅蜜寺 空也上人像六波羅蜜寺 空也上人立像(重要文化財) - 制作年不明だが、銘から法橋に叙される前の初期作。口から6体の阿弥陀仏の小像を吐き出している特異な姿の像。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字が仏と化したことを意味する。
・法隆寺金堂西の間 阿弥陀三尊像(銅造、重要文化財) - 貞永元年(1232年)。「法橋康勝」銘あり。当初安置されていた阿弥陀三尊像が盗難にあった後、飛鳥様式を模して造られた像。両脇侍のうち勢至菩薩像は明治時代初期に寺から流出して、パリのギメ東洋美術館の所蔵となっている。
東寺御影堂 弘法大師坐像(国宝) - 天福元年(1233年)
・推定作円成寺四天王像(重要文化財) - 建保5年(1217年)

<参考資料>
伊藤史朗 『日本の美術535 京都の鎌倉時代彫刻』 ぎょうせい、2011年 ISBN 978-4-324-08744-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%8B%9D

東寺の歴史
http://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress016/%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3/%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

伊藤史朗氏の論文として、以下も参照
http://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/6/006_ronbun_c.pdf

空也上人像(康勝)

空海と運慶 1

運慶 円城寺

1.円成寺

円成寺の有名な大日如来坐像。運慶初期の秀作である。その円成寺とは? 以下は同寺のHPからの引用

「創建については諸説あります。当山に伝わる『和州忍辱山円成寺縁起』(江戸時代)によると、天平勝宝8年(756)聖武上皇・孝謙天皇の勅願で、鑑真和上の弟子、唐僧虚滝和尚の開山であるとされていますが、同書のなかで中興の祖とされている命禅上人が、万寿3年(1026)、この地に十一面観音像を安置したのが始まりのようです。
天永3年(1112)には、「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置し、仁平3年(1153)、広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流を始めるに及び当山の基礎が築かれました。」
http://www.enjyouji.jp/about/index.html

真言宗の開祖は空海。運慶の実質デビュー作は真言宗の最高神、大日如来坐像であり、それを定めたのは空海である。

2.寛遍上人

円成寺の大日如来坐像は安元2年(1176年)に完成したとされる。運慶の生年は不詳だが、二十歳頃からの作像との説がある。仮に1150年頃の生まれとすれば、勧進元の上記、寛遍上人から父康慶には直接の依頼があったかも知れない。また、寛遍およびその後継からの影響をうけて造像が行われた可能性は高いだろう。以下は、寛遍上人についての引用。

「寛遍(かんぺん、康和2年(1100年) - 永万2年6月30日(1166年7月28日))は、平安時代後期の真言宗の僧。父は大納言源師忠。尊勝院大僧正・忍辱山大僧正とも称される。
山城国円教寺の寛蓮に師事して出家し、寛助に灌頂を受けた。その後大和国忍辱山円成寺を再興し、一字金輪法を日課とした。広隆寺別当・東寺長者・東寺法務・東大寺別当・仁和寺別当・円教寺別当を歴任し、1161年(応保元年)大僧正に至った。この間には、高野山大塔落慶供養の導師をつとめ、また、尊寿院を建立し、鳥羽天皇の皇后美福門院(藤原得子)が寄進した「御手印縁起」を尊寿院におさめた。事相にすぐれ、その後忍辱山流の祖とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E9%81%8D

寛遍は真言宗の高僧であり、空海の教えを継ぐ者であったことがわかる。かつ、広隆寺、東寺、東大寺、仁和寺、円教寺、高野山と深き関係があったとされる。その後の運慶の足跡とかさなる有力寺院がここに含まれている。

3.東寺(教王護国寺)

運慶と東寺との関係。運慶は建久8(1197)年5月から翌年9月にかけて、文覚上人の勧進により、数十人の小仏師を率いて東寺講堂の五仏・五菩薩・五大尊・梵天・帝釈天・四天王像の大修理を行った。いかに東寺との関係が深かったかを知ることができる。その東寺については言わずとしれた空海の創建である。以下は引用。

「東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA

4.文覚上人

文覚は源頼朝と寝食を共にした、鎌倉幕府成立に深くかかわった武士にして真言宗僧侶。ここでは、源頼朝―文覚―運慶を線で結んでおこう。文覚の関係寺院として、以下も参照。

「頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

5.高野山(金剛峰寺)

高野山には運慶の有名作が保管されている。以下を参照。
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/cyokoku.html

西大寺 小考2 四天王邪鬼は見ている

西大寺 増長天邪鬼
西大寺 増長天邪鬼(奈良時代)
https://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201111050000/

西大寺については、創建当初の時代についての風説をふくめ、あまりにも多くの「ストーリー性」がある。普通の美術史家には書けないが、梅原猛氏は、藤原仲麻呂と孝謙上皇との情交、そしてその後の抗争と仲麻呂の頓死(恵美押勝の乱)の濃厚な可能性についてふれ、さらに、母、光明皇太后の死にショックをうけて病気となり、その治療をつうじて寵愛を受けた僧道鏡との情交にもふれている。
道鏡は、称徳天皇(孝謙上皇重祚)の後見のもと権力を握り、皇位を狙うが失脚する。称徳天皇崩御ののち、政情は大いに動揺し、やがて都は長岡京を経て平安京に移る。 大義名分なき造営、人望の失墜した称徳天皇の寺、西大寺は、南都七大寺の一つながら、その没落の道は早かった。上に掲げた「西大寺 増長天邪鬼」(奈良時代)は当初のものとのことだが、この邪鬼だけがかわらぬ歴史の証人というのもなにか皮肉なものを感じる。

(参考)梅原猛「俗と聖の間の寺」(『古寺巡礼 奈良8西大寺』1979年 淡交社)を参照

西大寺 小考1 南都七大寺

西大寺東塔跡と本堂(重要文化財)

【南都七大寺】

西大寺は南都七大寺の一つ。その七大寺とは、通常は興福寺(奈良市登大路町)、東大寺(奈良市雑司町)、西大寺 (奈良市西大寺芝町)、薬師寺(奈良市西ノ京町)、元興寺(奈良市中院町、芝新屋町)、大安寺(奈良市大安寺)および法隆寺(生駒郡斑鳩町)と言われる。
このうち、いまも大伽藍ないし多くの第一級の多くの宝物誇るのが、興福寺、東大寺、薬師寺、法隆寺の四寺であり、大安寺、元興寺および西大寺の三寺は没落の憂き目にあっている。
今回の西大寺展で面白いのは、この没落組の西大寺をはじめとする多くの寺院の連携である。今回の展示会に先立って、いまから四半世紀以上も前の1991年にも、奈良西大寺展が大規模に開かれたが、「真言律宗一門の秘法公開」と銘打たれ、今回同様、各寺院が集っている。

【真言律宗】

西大寺の興正菩薩叡尊を中興の祖とする宗派であり、真言宗の開祖、空海を特に仰いでいる。「叡尊は荒廃した既存仏教に対する批判から律宗の覚盛とともに、これまで国家が定めた手続きによる方法しか認められていなかった出家戒の授戒を自らの手で行った(自誓授戒)。その後、戒律に対する考え方の違いから覚盛と一線を画するが、彼の依頼による西大寺再興を引き受けて、続いて海龍王寺・法華寺・般若寺などの再興に従事して、朝廷の許可なくして独自の戒壇を設置した。続いて弟子の忍性が登場して叡尊が十分に達せられなかった民衆への布教に才覚を示して、鎌倉に極楽寺を建立した。」( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%BE%8B%E5%AE%97

つまり、西大寺をはじめとして、海龍王寺、法華寺、般若寺、極楽寺(鎌倉)が同宗派のコアということになる。次に由緒寺として、放生院(京都府宇治市)、岩船寺(京都府木津川市)、浄瑠璃寺(木津川市)、不退寺(奈良市)、元興寺極楽坊(奈良市)、元興寺小塔院(奈良市)、白毫寺(奈良市)、額安寺(奈良県大和郡山市) などがある。こうしてみてくると、確かに大寺ではないけれど、ユニークで至宝をもつ寺院が名を連ねていることがわかる。

【元興寺】

さて、ここで南都七大寺の一つである元興寺がふたたび登場する。「日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、 蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、 新築移転されたのが、元興寺 (佛法元興の場、聖教最初の地)である」(元興寺HP)という最も正統なる歴史をもつ大寺は、儚く没落するだけでなく、多くの文物は南都の他の寺へ移管され、いわば解体されてしまう。その後の数奇な変遷もほかの都七大寺にはないものである。

「飛鳥時代以来、伝統の三論宗、(『大安寺流』に対し『元興寺流』)と法相宗(興福寺の北寺伝『御蓋流』に対し南寺伝『飛鳥流』)が主に学問されていたが、平安中期には衰えてしまう。むしろ真言宗に属する多くの僧を輩出した。
その後、伽藍は荒廃し、堂塔が分離してゆくことになる。中でも伽藍の中央部、金堂、講堂など中枢部の北に当たる僧坊の地域に、東室南階大房が十二房遺って、その一室が特に極楽坊と呼ばれるようになる。この場所は奈良時代の元興寺三論宗の学僧智光法師が居住した禅室で、我が国浄土三曼荼羅(智光、当麻、清海)の随一である智光曼荼羅(掌中示現阿弥陀如来浄土変相図)発祥の地とする信仰が生まれた。
極楽坊では嘉応3年(1171)頃から盛んに百日念仏講が営まれ、南都の別所的役割を担ったようである。その後、高野聖西行法師が極楽房天井の改築勧進を行ったとか、東大寺戒壇院の圓照実相上人が僧房改築の勧進をしたとか、西大寺信空慈道上人が僧房修理のため南市で勧進を行ったとか伝わる。要するに、遁世僧や律僧の大切な道場として再出発したようである。
治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ちによって、興福寺大乘院(今の奈良県文化会館あたり)が焼失し、元興寺禅定院に寄生した事によって、特に極楽坊は大乘院が支配することになり、住持は光圓上人を初代としてその法流が八代続いた。
寛元2年(1244)には極楽房を中心に大改築が行われ、元興寺極楽坊本堂(極楽堂)と禅室(春日影向堂)の二棟に分離された。この事から極楽房は東向き(旧元興寺は南向き)の独立的な寺院となったようである。
さらに、文永五年(1268)には約5,000人に及ぶ道俗の勧進からなる聖徳太子立像(十六才孝養像)、弘安年間に弘法大師坐像が造立され、聖徳太子と弘法大師に係わる寺院としての性格を確立していった。この時点で、恐らく西大寺叡尊思円上人や東大寺聖守中道上人の影響を多大に受けたようである。」(元興寺HP)

【興正菩薩叡尊との関係】

ここまできて、叡尊が登場する。西大寺を再興させた叡尊が、民衆信仰の基盤のもと元興寺についてもコミットするのである。

法隆寺の謎

法隆寺金堂壁画

法隆寺の謎、そう聞くとワクワクするものがあるが、いくつかの源流がある。第1に、戦前からつづく法隆寺、再建・非再建論争というのがあって、ここには謎解きのような趣きがある。近年、科学の力で随分と見通しがよくなっている。

➡ 法隆寺再建の謎
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-98.html

第2に、梅原猛『隠された十字架・法隆寺論』という書物が、挑戦的にいくつかの謎を提起した。「隠された十字架」と言われれば誰でも、「隠れキリシタン」を連想しそうだが、古くから大陸には「景教」があり、そのアナロジーをここに滲ませているかも知れない。
しかし、本書を読むと、「景教」ではなくむしろ呪術的な要素が強く、これは平安初期の密教的な色彩が強い。ちなみに「秘密」という言葉も密教からきている。具体的な指摘に対しては、多くの反論(というより誤りの指摘)がなされている。
たとえば、梅原 猛『隠された十字架―法隆寺論』(新潮社 1972年)、梅原 猛『聖徳太子(1)~(4)』(集英社 1993年)に対して、武澤 秀一『法隆寺の謎を解く』(筑摩書房 2006年)などを参照。

➡ 隠された十字架
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8D%81%E5%AD%97%E6%9E%B6

第3に、古くから伝承などで語られてきた謎がある。なかには「日本昔ばなし」のような微笑ましいものもある。

法隆寺の謎
http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH22H07_S4A021C1AA1P00/

さて、こうした3つの源流をすべて踏まえ、法隆寺の公式見解?を表明した本がある。高田良信『法隆寺のなぞ』 (主婦の友社 1977年) である。この本を読むと、「なあんだ、法隆寺の謎のネタ本はここにあったのか」と合点がいく。

➡ 参考文献リスト2
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-57.html

ところで、法隆寺は高田良信さんの発想力が豊かで、「謎」をいまにいたるまでブームとしているが、もともと「謎」という字を分解すれば、よまいごと(世+)に通じる。
また、法隆寺は「持てる寺」で古くから分厚い文物の蓄積があるが、持てば持つほど、わからないことが多くなるのは理の当然。その点では、興福寺も東大寺も薬師寺なども同様。しかし、なんと言っても、法隆寺は聖徳太子がらみの寺であり、その太子の実在についても諸説が提起されているので、これに拍車がかかっているとは言えるだろう。

➡ 聖徳太子のまなざし
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-485.html

➡ 聖徳太子について(11)
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-146.html

法隆寺金堂壁画2



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